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『白ツツジ』
何でも、婚約者の祖母に抱きつかれ、小波くんはあらぬ誤解を招いてしまった、という話だ。誤解をした、とうの婚約者というのはもちろん早川あおい。たいへんだったんだよ、まったく。まさか実のおばあちゃんにまで嫉妬するなんて、そういう口ぶりの小波くんは心底幸せそうだ、と矢部は思う。小波くんは続きを話しはじめた。
 

――誤解を解くのに骨が折れたよ。精神的な疲労骨折というのもあっていいんじゃないかな。だって、そんな状況に至るまでの経緯を、彼女にそっくり打ち明けるわけにはいかなかった、それはオレの勘ぐりすぎかもしれなかったけれど、何だかはばかられたんだ。まあ、ひとしきり聞いてくれれば、理由もわかってくれると思う。

ゴールデンウィークにあおいちゃんの実家に行ったんだ。武蔵(雷蔵)さんの家じゃないよ、彼女が幼少期から思春期を過ごした、おばあちゃんのうちさ。おばあちゃんは彼女の母方の祖母なんだけど、いまだご壮健でね、70才を過ぎたふうには見えない。電動機付でもないのに自転車の立ちこぎするらしい。足腰の頑丈なことは長生きの秘訣だから、と鍛えてらっしゃるそうだ。まあ、それはさて置き。

二人しておばあちゃんの家に行ったのは、その日がおばあちゃんの誕生日で、手作りの料理でお祝いをするからだった。ぼくらの家から、歩いて20分とかからないんだが、ご実家につくまで1時間はかかった。あおいちゃんはすこぶる気合が入っていて、駅前の商店街で、ざるに何種類もの野菜を積んだ八百屋だったりとか、黄色い厚紙に赤いマジックペンで肉の部位を書いている庶民的なお肉屋さんなんかで、材料をながい時間かけて吟味していたからだ。

(その様子は、どうしてこんなにも気負っているんだろうと訝るくらいだったけれど、あとで聞いたら合点がいった。それはあおいちゃんの花嫁修業の成果を、おばあちゃんに認めてもらう目的も兼ねていたらしいんだ。矢部くんもご承知のとおり、かつての彼女の手料理といったら、確実に乱闘に発展するビーンボールみたいなものだったからね。おばあちゃんも、このままで嫁入りさせるわけにはいかない、と真剣に気にしていたらしい)
 

着いたころには日が暮れかかっていた。あおいちゃんの実家は、郊外にある、こじんまりとした平屋だった。木製の表札には「西芳寺」とあった。知ってのとおり、彼女が7才のときにお母さんが亡くなって、母ひとり子ひとりだった彼女が引き取られ、高校卒業までを過ごした家だ。何度か話には聞いていたけれど、来るのははじめてだった。玄関の脇には背のたかいキンモクセイの樹が一本あり、そばには赤ツツジが咲いていた。ちょうど時期だからね、潤ったツツジ色が目にあざやかだった。

彼女は「懐かしい」と一言つぶやき、引き戸の玄関をガラララッと横に開けた。引き戸の玄関は、その家々で力加減が難しいものだけれど、彼女の引き方は乱暴なようでいて、いかにも実家の玄関を開ける自然な配分があった。それがぼくには面白かった。おおげさなようだけど、この玄関を何千回と彼女が開け閉めしていた、ということがじかに感じられたから。

まもなくおばあちゃんがすり足で出てきた。すすっと、しっかりした足取りだった。「小波さん、いらっしゃいましね」というおばあちゃんの雰囲気は、まるで絵にかいたような柔和で優しげでね、お菓子の「ぽたぽた焼き」のイラストを思い出してもらうとまちがいないだろう。

あおいちゃんと似ているところを探してみようと思ったが、顔をまじまじ観察するわけにもいかないので、何とも難しかった。ただ、家を案内してくれているあいだ、ずっとオレの目の前には、おばあちゃんのお団子ヘアがあった。その髪は年齢にそぐわないほどに艶々ときれいで、あおいちゃんの若草の髪はおばあちゃん譲りなのかなァ、なんてことを思って満足した。
 

居間にあがってから、オレはおばあちゃんの好物だというパワ堂のねりようかんをお土産に差し出した。「あーら、これは良いものね、小波さん」といって、胸の先で自分の手を握りあわせて喜んだ。その様子は少しわざとらしくもあったけれど、乙女らしく、何だか可愛らしかった。あおいちゃんもこういうところが表に出ないかしら、と思っていたところで「おばぁちゃーん! あんまり食べすぎちゃダメだからねッ。夕食あるんだから」とあおいちゃんが釘を刺した。彼女にすれば、空腹のまま夕食に持ち込むことで祖母の免許皆伝を得やすくする気持ちだったのだろうが、オレにすると内心を見透かされたようでバツが悪かった。

「じゃあボク、夕食の支度するから。小波くん、くつろいでいてね」

さっそく、あおいちゃんは台所に立って買ってきた食材を並べていた。おばあちゃんが

「コレあおい、料理のときは割烹着をなさい」

と忠告したら、「おばぁちゃん、そういうと思ったー。エプロン持ってきてるんですー!」とあおいちゃんはさも得意気に、バックからエプロンを引っ張り出して、パンッ、音を叩いて広げた。彼女らしい負けん気が面白くて、オレはおばあちゃんと顔を見合わせて笑った。
 

それではいただきものですけど、お茶うけにようかんを食べましょうかね――あおいちゃんが手書きのレシピ本を復習している台所、手慣れた所作でおばあちゃんはようかんを切って、小皿に乗せた。「小波さん、よければ縁側で召し上がりませんか? ツツジがきれいでしょう」そう促されて、オレは移動した。そこにはあおいちゃんの集中を削がないように、という祖母の気遣いがたしかに感じられた。オレは微笑しながら従った。

おばあちゃんはポットと湯呑を縁側に持ってきた。急須にお湯を入れながら、「あの子は、あいかわらず負けず嫌いですねぇ」としみじみ言った。

「最近は、そうでもないですよ。落ち着いて話を聞いてくれます」
「まあ! それはそれは」

おばあちゃんは、ほほほ、と愉快そうに笑い声をあげた。このところの彼女はほんとうに柔らかくなった。ダイヤモンドが銀ほどに柔らかくなった。いや矢部くん、笑わないでくれ、ほんとうだよ。以前の彼女といったら超高級核シェルターもかくや、という有様だったんだから。

オレはおばあちゃんに、結婚式の手配などの話をしながら、ようかんを食べた。台所のほうから時おり騒がしい音が聴こえたけれど、おばあちゃんは別段気に留めない様子で、竹のナイフでようかんを小さく切って口に運んでいた。夕陽が茜色に変わり、中庭を染めていた。ふとおばあちゃんの顔を見ると、色濃く染まるツツジを眺めているようでいて、何かほかのことを頭に思い浮かべている表情だった。それから改めてこう言ったんだ。

「ほんとうに、あの子は優しい顔をするようになりました。小波さんのおかげね」
「そんな……オレは特になにも」
「秀一さんのことでも、小波さんにお世話になったと聞いています」

本当に、ありがとうね――おばあちゃんは正座したまま背を丸くしてお辞儀した。オレはあわてて、顔を上げてくださいと言った。秀一さんというのは、もちろん武蔵さんのことだ。あおいちゃんがどう伝えていたのか知らないけれど、オレのしたことなんて、まったくお節介の範疇を出ないと思っていたから、恐縮してしまったよ。

それからおばあちゃんは、引き取られたころのあおいちゃんの話をしてくれた。
 

自分が生まれる前に父親が失踪し、ただひとりの頼りだった母親を病気で亡くした彼女のことを、みんな不憫に思っていた。周囲の空気を幼い彼女は感じていたんだろう、大人たちの憐憫をはねつける態度に、そうとう手を焼いたらしかった。腫れ物に触る、なんてモンじゃない。おばあちゃんはこう言っていたよ、「湿気ているのか判然としない、爆弾の導火線」だとね。「いつ突然に火を噴くのか、わかりゃしませんでした」

引き取られた当初の彼女には、奇行があったらしい。よく彼女は高い建物に登って、遠くを見たがったらしい。デパートの屋上の貯水タンクのある小屋の上とか、閉鎖された学校の屋上とか、果てには街で一番の高層マンションのテラスに侵入したこともあったらしく、そのときは警察に補導され、おばあちゃんが迎えに行ったそうだ。

「あのとき、アタシたちは母親が恋しいのだと思っていました。だから空に近い場所に行きたがるのだと。それは恐ろしいことだった、その延長にあるものを想像するとね……。だから、絶対に止めさせないといけないと思いました。警察署からの帰り道、アタシはあおいの頬をぶちました。後にも先にも、手をあげたのはあのときだけです。それでもあの子は泣かなかった。どうしてこんなことをするのか、アタシは答えありきで問いただしましたが、あの子はだんまりで、代わりに、そっぽを向いて何かを睨んでいました」

「アタシは怖くなりました。娘を育てたときに、こんな表情をしたことがあったろうか、とね。記憶の糸をたぐり寄せそうとしたけれど、その先には何も付いていなかった。それからも、あの子はその険しく危うげな顔をすることがありました。きっと、小波さんがあおいと会ったころも、そうだったでしょうね」

おばあちゃんはお茶をすすった。つられるようにオレもお茶をすすった。そして、プロ入りして初めて彼女を見たころを思い出していた。すぐ折れてしまう鋭利な槍、暗いものが埋まった砂の城――オレには、おばあちゃんが言っていることが理解できた。そして彼女の表情の出どころも。
 

「小波さんは、ツツジの蜜を吸ったことがありますか?」

おばあちゃんは、庭のツツジを眺めながら言った。オレはそのとき、話を変えようとしているのかと思った。少し唐突な気もしたが、これ以上、彼女の子どもの頃の話を聞くのは辛かったので、ありがたい気もした。ええ、男の子ならみんな一度はあるんじゃないでしょうか、そんな暢気な返事をした。ああ、矢部くんも吸ったことがあるよね、花の芯といったらいいのか、花弁の元の部分から取って裏側から吸うと、はっきりと甘い味がする。学校や通学路の植え込みにはだいたいツツジがあるから、よく吸ったもんだよ。でもね、今はある品種のツツジには毒があるので、吸わないように子どもに注意する親も多いらしいけれど。

「そうね、あおいもよく、この庭で吸っていました。あんまりやりすぎるものだから、花が可哀そうで怒ったことがあるくらい。それでも男勝りな子だったので、登下校中にツツジを見つけては男の子といっしょに吸っていたそうです。ふふ、あの子らしいでしょう?」

ほんとうに、周りの男の子よりも大量に、花粉にまみれて蜜を吸う小さな彼女が目に浮かんで、オレも笑った。

おばあちゃんはツツジにまつわる話を続けた。小学校2年になって、あおいちゃんはリトルリーグの野球チームに入った。身体も女の子にしては大きく、運動神経が抜群だったので学校の男の子にスカウトされたそうだ。

河川敷の球場がチームのホームグラウンドだったが、そこにもツツジの花が咲いていて、時期になると彼女は飽きずに吸っていた。あるとき、彼女は河川敷で白ツツジを発見した。赤やピンクのツツジは、彩りのためかよく植えられているが、白ツツジは街にはあまり植えられていなかった。彼女は嬉々として蜜蜂と化し、また吸ってみたのだが、あまり甘く感じなかった。晩ご飯のときに、そんなことを彼女は話したらしい。

「アタシは、気のせいよ、とあの子にいいました。同じ品種なら蜜に差なんてないでしょうから。でもあの子は変に大人びた口調で言ったんです。『きっと、白ツツジは何か足りないんだね。ツツジとして欠けてるんだ。ボクにはわかる。だって、蜜が甘くないんだもの』と。そのときは、特に気にかけませんでした」
 

「次の年の春です。あおいは丈夫なコですから、流行り病にかかることも少なかったですが、珍しく体調を壊したんです。朝、起きてみると、あおいが『地面が揺れている、めまいがして立てない』というので、熱を測ってみたら38.7度もありました。インフルエンザかも知れないと思い、午前中は安静にさせ、夕方になってからアタシは歩いて行ける近所の内科の病院へ、あおいをおぶっていきました。鼻づまりのためか、口でふーふーと苦しげな息を吐いていました」

やはり病院でインフルエンザと診断されたので、あおいちゃんは注射を打ち、5日分の内服薬をもらうことになった。おばあちゃんは、窓口で保険証とともに薄みどりのカードを取り出した。そのカードには赤い判子で「父子」と捺されてあった。彼女はそのときはじめて子ども医療費助成受給者証を見たんだ。住んでいる地区によって基準は違うらしいけれど、ひとり親の子どもはある一定の年齢まで医療費を行政が負担してくれる。

支払いをする必要はなく、ふたりは病院を出た。おばあちゃんは、彼女に背に乗るように勧めたが、首を横に振った。

「振り返ると、あおいはあの表情をしていました。湧いてくる激昂を、歯を食いしばることによって抑えているようでした。今にも顔自体が脆く破れてしまいそうな危うさでした。今でも、あおいに悪いことをしたと思っています。それまでアタシはあの子にひとり親受給者証のカードのことを説明していませんでしたから」

何が彼女をもっとも傷つけたのか、おばあちゃんは今でも考えると言った。医療費の助成を受けることは、母親の死をお金に変えるように感じられたのかもしれない。また、もはや自分の血が直接つながっているのが憎むべき父だけだと見せつけられ、不快に思ったのかもしれない。おばあちゃんが自分の医療費を出さないことを、愛情の欠損と取ったのかもしれない。いずれにしても彼女は深く傷つき、叫ぶように言った。「なんで、そんなもの使うの! なんでボクの気持ちをわかってくれないの!」
 

「あの子はアタシを突き飛ばし、何かに逃れるように走っていきました。もしくは何かを追い求めるように、といったほうが正しかったかもしれません」

陽が燃えて地球の裏側に落ちていく中、彼女は走った。おばあちゃんはすぐに追いかけたけれど、小さな路地に入られて行方はわからなくなった。50過ぎの老婦人よりも、小学生のほうがよほど小路には詳しい。夜になるにつれ、気温は急に下がり、日中の爽やかな風は冷たく尖りつつあった。

おばあちゃんは、孫娘が心配でたまらなかった。病身の高熱と走ったことによる発汗は、夜になって冷たくなり彼女の小さな身体を痛めつけるだろう、と思って。めまいの足取りでいれば、不慮の交通事故に合ってもおかしくない。名前を呼びながら、おばあちゃんは近所を探し歩いたらしい。そのあいだも、彼女の「なんでわかってくれないの!」という訴えに近い言葉がおばあちゃんの脳裏で繰り返されていた。

「その響きの憐れさと、あおいが心配な気持ちが絡まって、泣きたくなりました。でも泣いても仕方がないので、無闇にさまよいました。夕陽がはずれの林に落ちかかって、木々の姿を黒いシルエットにしていました。その黒い木々のうねりが禍々しく感じられたのは、きっとアタシの心象からでしょう」

それから、おばあちゃんはオレに問いかけたんだ。
「小波さん、あの子はどこにいたと思いますか?」
オレは、幼いあおいちゃんが心配になった。ほんとうに、どこに行ってしまったのか。今のあおいちゃんは、台所にいて鼻歌を歌いながら、おそらく食材からして肉じゃがと、三枚におろすところからはじめた焼き魚、わかめとお豆腐の味噌汁を作っている。

でも、小さな彼女はどこにいる?
 

矢部くん、おかしいと思わずに聞いてくれ。オレは、そのときのおばあちゃんと一緒の気持ちになって、必死に考えたんだ。ほんとうに、あおいちゃんにもしものことがあったら……思い浮かぶ悪い想像を振り払いながら。インフルエンザの熱と吐き気に苛まれながら、走り続ける彼女のことを心配しながら。幼い彼女のことを、どうにか「わかろう」と努めた。

そしてオレはおばあちゃんに伝えたんだ。彼女の居場所を。

きっと、最初にあおいちゃんが行こうとしたのは、高い場所だった。哀しくなると、彼女は高い場所に登りたがった。それは母親への思慕ではなかった。まだ見ぬ父親を探すこと、そして見つけてもらうためだったんだ。でも、それは諦めた。警察に補導されて、迎えに来たおばあちゃんにぶたれたことを思い出したんだ。それは恐怖の記憶じゃない。彼女をぶったおばあちゃんの心の痛みを、人の痛みを彼女はわかる人だから。同じ想いをさせてはいけない、と、熱に浮かされた頭で彼女は考えた。

友達の家に行く選択肢もあった。しかしその選択肢を彼女は捨てた。インフルエンザに罹っているんだ、うつしてしまっては迷惑になるだろうから。それに、彼女は高貴な野良猫のように、辛い思いをしているときには、誰からも離れて独りで耐えようとする。そういう困った気質の人だから。

「うんうん。つづけてくださいな」

隣に座るおばあちゃんは、目元を細めて笑顔でそういった。もう日は落ちて、庭は家からの灯りでかろうじて輪郭を保っていた。台所のほうから、炊飯器が鳴ってご飯がたきあがったことを告げる音がした。焼き魚の焼ける匂い、お味噌のいい香りがただよってくる。もうすぐ出来上がるのだろう。

……家に帰らなくてはいけない、おばあちゃんが心配しているから。それでも幼い彼女は帰れない。自分をおぶって病院に連れてきてくれた、優しいおばあちゃんを突き飛ばしてしまった。もう自分には帰る資格はない。もともと、そこは自分の実家ではない、「住まわしてもらっている」という意識は消えなかった。おばあちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝りながら、彼女の足は家から遠のいていく。
いっそ、このまま死んでしまったほうがいいのだ、とすら思った。

「それから?」

おばあちゃんはオレを促した。いつのまにかオレの声が震えていた。喉の奥から嗚咽がこみ上げてくる。それから、それから……彼女は学校の次に行きなれた場所に向かう。ほとんど無意識に近かった。鼓動は激しく、心臓が棍棒で叩かれるように痛かった。目に汗が入ってきて沁みる、瞼は重く視線はほとんどかすんでいる。足がもつれて何度か倒れそうになるけれど、頭を左右に振って危うくバランスを保っている。

河川敷の坂をあがり、グラウンドに続く道の途中で、彼女は足を止めた。ほとんど倒れるようにして、彼女の知るかぎりそこにしか咲いていない、白ツツジの植え込みに顔をうずめた。ツツジのざらつく葉を気にも留めず、花粉にまみれて彼女は泣いた。

「……小波さん、ありがとう。あの子を見つけてくれて」

おばあちゃんは、涙に濡れたオレの顔を両手で包むように抱きしめた。きっと、その日あおいちゃんを抱きしめた抱擁。寂しかったんだ。もう誰も自分のことなどわかってくれるはずがないと諦め、それでも、自分のことを想い巡らし、見つけてくれることを欲していた。この抱きしめは、早川あおいにとってどんなに優しかっただろう。オレもまた、おばあちゃんに感謝の言葉を述べた。おばあちゃんは「うんうん」とうなずき、「白ツツジや、色づけ色づけ」と、あやすように何度も繰り返した。
 

「それから、アタシはあの子の頭を撫でて、こうやって、背中に手を回しました。しばらく、そうやってあの子が落ち着くのを待っていた。それしかアタシにはできなかった。……辛いことがあると、よく同じように抱きしめてあげたものです」

耳元で聞こえるおばあちゃんの声はやわらかだった。オレもまた、呼吸が落ち着いてくるのを感じた。
奥から「ご飯できたよー。小波くーん、おばぁちゃーん!」と彼女の声がする。

「アタシなりに、あおいを精いっぱい愛したつもりです。ただ、父親のこともありましたから、どれだけ救ってあげられたか、ずっとアタシは心配でした。でも、小波さんに出会ったころから、あの子はだんだんと角が取れてきました。優しい表情をすることが増えた。そして今日、あなたはいつ、どこにいても、あの子のことを理解して、見つけてくれる人だとわかりました」

おばあちゃんの言葉に、オレはとても誇らしくなった。人間は神様じゃないんだ、他人を完全に理解することなんて、人間にはできないことだけれど、彼女に対しては、いつまでも理解することを忘れないでいよう、と思った。

力強い足音がして、縁側の板床が揺れた。あおいちゃんが姿をあらわす。

「ちょっとふたりとも、ご飯冷えちゃうじゃない。って、あ、う、お、おばーちゃん何してんのよ!」
「何って、抱きしめてるだけじゃないのさ」

さも当たり前のようにおばあちゃんが言うので、オレは青ざめた。とっさに逃れようとしたけれど、おばあちゃんが力を込めるので、どうしようもなかった。いたずらっぽく、ほほほと笑う祖母様。

「もー、おばあちゃんってば! 小波くんも何まんざらでもない顔してるんだよ! 顔赤いし!」
「わっ、ごめん」
「謝るってことは認めるってこと!? おばあちゃん相手でもこういうの許さないよボク!」

いや、おばあちゃんなら尚更マズいでしょ、とは状況が状況なのでツッコめなかった。ただ、目をつり上げて彼女は怒るが、それすらも、ずいぶんと穏やかになったものだと、暢気なことを思った。

「まあまあ、夫婦喧嘩は中断して、お食事にしましょうかね。ホレ、あおい。ご飯をよそって」

腕をほどいで、よっこらせ、と腰を上げておばあちゃんは立ち上がり、あおいちゃんの背中を縁側から台所へ押していく。「小波さん。こんなおてんば娘ですけど、どうか、よろしくお願いしますね」という言葉を残して。向こうで「きゃー、恥ずかしいこと言わないでよ!」とおてんば娘が叫んでいた。
 

オレも台所に行こうとして、庭のツツジを眺めた。家の灯りが当たる花弁は、夕方見たときよりも濃くあざやか色づいて見えた。それはきっと、オレの心象のあらわれなのだけれど。

縁側からおりて、花の蜜を吸ってみたいと思った。子どものころと同じ要領で花をむしり、裏側の蜜を吸えば、やはり変わらず甘い香りがした。「こーなーみーくーん!」と、少し怒気を含んだ彼女の声。それすらもまた、甘い響きがしたんだ。

| パワプロSS | 19:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
『夏嵐』
 ひと夏のうち、わずか7日間ばかりを謳歌して蝉は息絶えるというのに、まるで永遠に蝉が生き続けられるような、そんな軽井沢の夏だった。
 
 ミゾットスポーツが年間のうちに一度だけ、重要な顧客を招いて接待を行う『ミゾットフォーラム』というイベントがある。一泊二日、表向きは「研修会」と称して1日目には盛大なパーティを行い、2日目にはゴルフコンペだ。このときばかりは、営業部門も管理部門も組織を超えて協力し、自分たちに利益をもたらす顧客企業の重役を気持ちよくさせることに尽力する。
 パワフルタウン支店は規模の小さな支店なので、本社といっしょになって『ミゾットフォーラム』を開催する。8月の終わりに軽井沢、100社1名ずつ招待し、ホストであるミゾットスポーツ側も100名近いスタッフが集まって臨戦する。接待という名の戦いだった。

 パワフルタウン支店からは、営業の人間だけでなく、経理の山口賢、瀬久椎佳織もスタッフとして狩り出されていた。

 山口は野球部に所属しているがゴルフも上手である点が買われた。佳織は、本社にまで轟くその大人の色香のためだった。毎年、佳織は嫌がったが、本心はそうでもなかった。もったいぶって本社の人間に対して恩を売る気持ちがなくもなかった。そして「佳織くんあってのパワフルタウン支店だからね、頼むよ」と、同期で主任でもある山口に懇願される心地よさが忘れられなかった。

 いくつかの細かな不手際がありながらも、無事1日目が終わる。懇親会に続き二次会が締まったのは22時半。そこから明日の段取り確認のためのスタッフミーティング。ミーティング後も営業の中には、それぞれ担当する顧客企業の重役とお酒の付き合いをする者もいたが、1日目の山口と佳織の役目はここで終わりだった。

 24時を回っている。顧客はホテル内に泊まり、スタッフはホテルの所有する、整備された林の中に点在するコテージに泊まる。いくつかのコテージでは、スタッフだけの三次会を開かれる。パワフルタウン支店の営業は顧客と飲みに行ってしまったが、山口と佳織も本社の管理の人間から三次会に誘われていた。

 「山口くんはどうするの?」

 ホテルから各コテージは少し距離があって、巡回する小さな送迎車が定期的にでている。ふたりは慣れない接待の気疲れから来る疲労を両肩に感じながら、待合室の椅子に腰掛けていた。

 「一応、行くよ。本社のS**さんにはお世話になっているし。彼の好きなおつまみも買ってしまった」

ホテルの売店のビニール袋を持ち上げて、山口は言う。管理部門の人間らしくない、彼のソツの無さと付き合いの良さが、同じ部署で仕事をしている佳織には、いつも好ましかった。それなのになぜか、今日は返って嫌だった。佳織の心模様のように、強まった風に針葉樹林がざわめきを立てていた。

 「明日は晴れるといいね」

 送迎車に乗りながら、山口は言った。天気予報によると台風が来ているらしい。日本列島に上陸して速度をあげていて、どうか明日の朝までに過ぎ去ってくれることを、ミゾットスポーツの人間誰もが祈っていた。雨しずくを日の光が輝かせる爽やかな朝を願っていた。

 「そうね」
 
 もはや1日目で役目を終えたといっていい佳織にとっても、会社のことを考えれば、そうね、と言わざるを得なかった。山口のゴルフをしている姿も見てみたかった。このごろ、山口の野球部での活躍も目覚ましかった。今年、プロ野球のドラフトにかかる可能性は高いということだった。

 こうして山口と一緒に軽井沢に来るのも最後だろう。佳織は思った。はっきり認識してみると、目の奥にかすかな潤いを感じた。強風に揺れる車の中で、山口の隣に座った佳織は、自分の気持ちの波紋を不思議がった。ポロシャツから伸びる山口の左腕は太く、日に焼けてたいそう立派だった。佳織はまた、彼の左腕と右腕のことを考えた。

 現在、山口はミゾットスポーツの左腕のエースだ。本来は右利きだった。大学時代に右肩を壊し、また指先の血行障害によって、一度は野球を諦めてミゾットスポーツに総合職として入社した。佳織が出会ったころの山口賢は野球選手ではなかった。山口は1年前から左利きとして再起し、全盛期と同じくらいの速球を投げるまでになっている。

 佳織は、山口の左腕が頼もしかったが、細くなっていく右腕も愛おしいと思う。同じ職場にいて、彼の右手によって付箋に書かれる指示事項の優しい文字、しずかに電卓を叩く右の指先、何かをはかるように中指を薬指を折って数値資料をチェックする右手のしぐさが好きだった。

 「佳織くんはどうする、三次会。ひとりだと退屈だろう」

 佳織の泊まるコテージは2人用で、本社の事務の女性がいっしょに泊まるはずだったが、体調不良で不参加になっていた。

 「やめておくわ。……雨の匂いがする」
 「雨の匂い?」
 「お開きになっても、自分のコテージに戻れなくなりそう」

 南の方角から、湿気を含んだ雨の匂いが漂った。と、土を叩く雨音がして、すぐさまカーテンのひかれる音のように、サーッと周囲に広がった。冷たい土の匂いが夏に香る。少しあいた送迎車の窓から横なぐりの雨が入ってくる。佳織は雨を避けようと、とっさに山口のほうに身体を寄せた。運転手が手元のボタンで窓を閉める。佳織は図らずも取った自分の所作に恥しくなって、体温があがった気がした。山口にそんな狼狽が伝わらないでほしいと思った。

 「それよりも、ねえ、私のコテージで飲みなおさない? ふたりっきりで」

 自分の狼狽を他人の狼狽で隠そうとして、山口に寄り添った佳織は、艶っぽく上目遣いに誘う。それは山口とのあいだで交わした数々のやりとりと同じく、「冗談はよしてくれよ」という山口の困惑顔を期待したものだった。佳織はそのときだけは、山口より優位に立っている気がした。しかし山口は、顔をこわばらせて返事につまった。何だろう、今日という日は、まるで思いどおりにいかない。佳織はむしょうにかなしくなった。

 「C43、着きました。お疲れ様でした」

 運転手の丁寧な声。車はせいいっぱい佳織の泊まるコテージに近づいて止まっている。外は嵐が吹き荒れて、ホースで洗車でもされているみたいに窓には雨が当たっている。

 「なんて。ウソ、大丈夫よ。また明日ね」

 大丈夫――自分でも驚くほど頼りなくて、蝶のはばたきみたいだ、と思う。
 あまり停車させたままでもいられなくて、佳織は別れの言葉をつげ、急いで降りる。

 「佳織くんッ」

 山口が、自分を呼んだので佳織は振り返った。視線がまじわる。
 そのとき、佳織は自分が強い雨に降られていることを忘れた。

 車の中にいる山口賢の、また左腕のことを思った。ぽっと、ランプに灯がともるような感じで。山口の左腕。彼を野球の世界に引き戻した逞しい腕。その左腕は佳織にとって得体の知れぬものだった。彼の止まったままだった時計のネジを巻き、針をふたたび動かしはじめた。野球をしているとき、山口はずっと少年のような笑みをしていた。経理主任ではない、血の通った一人の男としての山口賢。

 佳織にいうべき言葉はなかった。ただ、郷愁のような切なさを感じた。ある瞬間、彼にとって自分がいちばん近いと思ったときがあったのに、もう戻ることはないのだ、と。山口の視線を受けながら、夏嵐の真ん中にたたずみながら、身体を離れて思考だけが働き、佳織はふいに自分の両肩をぎゅっと抱きたい気持ちに駆られた。

 ふいに、山口が車を降りてくる。そして佳織に触れる。

 山口は佳織の左の手首を掴んだ。佳織はその思いもよらないことに、息もつかずに走りだす山口の背中をぼんやりと見つめていた。コテージまで強く手を引かれている最中を、その後、佳織はなぜだかいつまでも覚えていた。

 コテージの軒の下について、佳織は急いで鍵を開け、ふたりは部屋に入った。コテージのドアを中から閉めるとき、暴風の音が人を脅かすように鳴って、まるで強制的に閉じ込められたみたいに佳織は感じた。

 「はあ。どうしたんだ、佳織くん」

 ハンカチを取り出して山口は身体を拭う。ただ、ハンカチは水滴を吸ってすぐに使い物にならなくなる。

 「佳織くんは、着替えたほうがいい。風邪を引いてしまうよ」

 そういわれて、自分が思っているよりも水浸しの格好なことに気づく。あのとき、私はどれだけのあいだ山口くんを見つめていたんだろう。車を降りて振り返った際のことを思い出す。山口が飛び出して、コテージまで連れて来てくれたこともわかる気がした。みずからの無様を情けなく思った。

 「ご、ごめんなさい」

 言って、その響きの素直さに冷やりとする。いつだって、佳織は優位でいたかった。とくに男の人の前では。そういう性分だった。生きる中での、バランスの取り方の問題だった。

 「でも、だって。あんなタイミングで呼ぶのだもの。それに、アハハ。山口くんだってびっしょり。ほら、タオルがあったわ」

 佳織は笑い、にわかに落ち着き払ってタオルを山口に渡す。山口は、一瞬、不機嫌そうな顔をするが、自分にも非があったかな、と思い直したらしく「そうかな」という。

 「ああ」、佳織は小さく唸った。そのとき、佳織にはわかった。優位に立つことは、決して対等ではないということだ。対等じゃない関係では、決して人の心に近づくことなんてできないのだ、と。こんなことではいけないのだ、と思った。

 小屋の中はすべて木目の色で、黄色い電球の温みに満ちている。もはや、外の世界は嵐に占拠されて、ごうごうと吹き荒れる風の音の中、佳織は山口の背中を見つめた。ポロシャツは水分を含んで張り付き、その広い背中の骨格をうかびあがらせていた。小さなコテージの中のふたりは、まるで落とし穴にでも落とされたようにぎこちなく息をひそめていた。

 「早く、嵐がやむといいのにな」

 窓の外を眺めて山口は嘆く。佳織はしかし、今度は「そうね」とは言わなかった。

 ほんとうに風邪を引いてしまったのだろうか、冷たい指と熱い体を持て余し気味に、佳織は山口に歩み寄る。胸の鼓動が高まって、収まりそうもなかった。

 佳織は少女のように祈った。山口もまた同じ気持ちで、胸の鼓動が落ち着くようにと、自分ではなく窓の景色を眺めているのだと。そして願わくば、この夏嵐のせいにして、佳織が愛おしく思うその右腕と、得体の知れない左腕で小さな女のからだを包み、ひしひしと抱いてほしいと佳織は思った。


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『バラ色の日々』
 素晴らしい日々だ。
 この心の色を、何に例えればいいのだろう。

 君は窓辺に花を飾る。

 柔らかい春の陽光が差しこんで、おさげに結った君の髪を輝かしている。「こんな感じでどうかな?」花瓶の置き場所を少しなおして、問いかけてくる君の姿を、風にふくらんだカーテンレースが隠す。すぐにあらわれる君の顔には笑みがこぼれる。えへへ、と照れたように笑う。私も何か気恥しくなって「いいんじゃないか」と低い声で返事する。

 信じられなかった。白く小さな部屋の中で、君といっしょに過ごす時間が訪れるなんて。かつては、すべてを捨てて生きてきたのに。今、眼の前で笑いかけてくれる君すら忘れ、プロ野球人生の大半を、身のうちの空虚を埋めるためだけに生きてきた。おのれの運命を呪い、生き続けていることに罪深さを感じながら。

 しかし、私は君とふたたび再会した。もはや叶わないと思っていた。それは許されないことだとみずからに言い聞かせていたのに、早川あおいという名の私の娘は――妻と同じく、花の名前を持った娘は、――こうして私のそばにいて、温かいコーヒーを淹れてカップを渡してくれたりする。


 無理しちゃダメだからねッ。わずらわしいかもしんないけど、しばらくはボク、お父さんの家に通うから。

 野球人生の黄昏どきを、私は海外リーグで過ごした。

 せめて最後だけは、かつて君の母、亡き妻といっしょに生きたころのような、健康な心に戻って野球を終わらせたかった。最後の年、私は足の靭帯を断裂した。それ以外の身体の部位も半ば壊れ物に近かった。君もまた同時期に、プロ野球の世界から身を退いた。

 今、当面は生活に不自由する私を気遣って、ひとり暮らしの家に来てくれる。その美しい姿かたちだけでなく、強引な口調に隠した優しさ、繊細で傷つきやすい気質が君の母とそっくりだということを知っているか。いつかそんな話をすることができたら、と願う。


 母親を愛するがゆえに私を憎み、野球を続けることで私を探し求めた君と、妻を愛するがゆえに心を病んで、君の存在を忘れ続けた私。
 私たち親子は、同じひとを想うあまり、ながく孤独な日々を過ごした。

 なぜもっと早くに君と向き合わなかったのだろう。この私の弱さのせいで、暗くどろどろした負の感情とともに君はどれだけの夜を越えただろう。どんなにいじらしい孤児の心で幼少期を過ごさせてしまっただろう。

 かつて君も同じことを私に言い、しかし、さらに私に告げた。
君はわかっていただろうか。そのことばが、どれほど私を救ったのかを。
(さいしょは、何ですぐに迎えに来てくれなかったのって、そう思った。

 お母さんが死んでから、ボクはずっと「かわいそうな子」として見られてた。引き取ってくれたおばあちゃんにすら、不憫だって、抱きしめられたことがあった。ボク自身は、全然そんなこと思ってないのに。

 でも、今になればわかるんだ。ボクもお父さんも同じ。お母さんを忘れたくなくて、もう絶対に無理なのに、泣きたいほどに会いたくて、そのせいでボクらは離ればなれだった。

 今はあの辛かった時期も大切に思える気がする。

 ボクとお父さんはあんなにながいあいだ遠くにいたけれど、それはほんとうにお母さんを愛していたからだよ。だから、ボクがお父さんを憎んで、お父さんはボクから遥か遠くにいても、ほんとうは、ずっと気づかないうちに繋がっていたんだ。

 ……ボクにはわかるよ。お父さんがどれだけ苦しんだか。なぜって、子どものころにボクがあなたを恨んだのと同じくらい、あなたは辛く哀しい思いをしたのだもの)

 はじめていっしょにお母さんのお墓にいったときのことを、君も覚えていると思う。私の運転する車で、君はカスミソウの花束を持って助手席にいた。お母さんがカスミソウを好きだったことを君は知らなかった。

 突然降りだした霧雨の中、私たちはお母さんの墓を綺麗にした。無言で、花束を差し、小さな草を抜いて、線香に火を灯し、ふたり横に並んで墓前にたたずんだ。傘を持たない私たちは同じように濡れていた。

 「今日、来れてよかった」。君は私に向かって言った。「だって、いっしょに雨に濡れたことすら、ボクらはなかったんだよ。こんな些細なことでも、うれしいって思えるんだから不思議だよね」


 君は赤と白とピンクのバラで花瓶を彩り、その出来栄えに得意満面でいる。コーヒーを飲みながら、私もまた微笑みを返す。私たちの交わす会話は未だぎこちない。

  お父さん。
  うむ。
  あの、……聞いてほしいことがあるんだ。
  どうした?

 君はテーブルの向かいに腰かけて、赤くなりながら言う。
 「結婚したい人がいる」と。
 不安そうに手を擦りあわす君に、私が父親らしく言えることがあるだろうか。君が選び、また君を選んだ相手を怪しむ気持ちはなかった。何より君の溢れ出る幸せの気配が、かつての懐かしい想いを呼びおこす。手放しで喜びたい気持ちだった。

 君は私に結婚を打ち明けてくれた。ただひとりの娘として、もっとも近しい存在である父親という私に祝福されるために。これまで私たちが歩んできた曲折に構わず、親子の信頼を示してくれた。
 だから私は父親然として、「一度、会わせてくれないか? あおいが選んだ人だ。きっと素敵な男だろう」と言う。君は緊張した面持ちをしながらも、素直に「うん」と応える。

 だけど、きっと君にもお見通しに違いない。私のわざとらしい厳格な物言いも、同じ気持ちからくるものだと。


 今はまだ、ままごとのような私たちのやりとりが、いつか、どこにでもありふれた親子のそれらしく、自然に響くようにと願う。
 ときおり、私は気まずくなって笑う。君は気持ちをうまく伝えられなくて説明を重ねる。近くにいても、ことばも何も必要ない、心地よい沈黙にはほど遠い。

 それでも君といっしょにいられるということ。
 なんて、素晴らしい日々なんだ。

| パワプロSS | 17:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
『夢見るころを過ぎても』

 神楽坂グループ本社ビルの、22時を過ぎた管理部門のフロア。右半分の照明は消されて薄暗く、残っているのは左半分の経理部の人間ばかり。公認会計士(CPA)対応窓口である平井さんとぼく、そして六道聖先輩の3人がその内訳だ。

 第1四半期決算の開示をあさってに控え、下手を打てば終電を過ぎても応接室に居座っていそうな勢いのCPAを何とかやり込めた平井さんとぼくは、もはや緊張の糸が切れて談笑を交わしていた。そんなぼくらには一瞥もくれず、六道さんは30センチ定規を片手に資料をチェックする。数字を一つずつ確認しては、レ点を描く彼女のボールペンの音が、ある一定のリズムで静かに聞こえていた。

 パソコンにショートメールが届く。平井さんからだ。メールをひらくと「のらくら亭、行くかー」とある。のらくら亭とは会社に近い立ち飲み屋のこと。ショートメールで伝えてくるのは六道さんを気にしているのだろう。立ちあがって、平井さんには聞こえない程度の声量で六道さんに話しかける。

 「あのー、まだやってくんですか?」

 先輩とはいえ、女性をひとり残して会社を立ち去るのは気が引ける。六道さんは資料の上の定規に手を添えたまま、上目遣いでぼくに答える。凛とした声。

 「先に帰ってもかまわんぞ。私はやることが残っている」
 「すいません。キャビネットの戸締りはしときますんで」
 「わかった」それから一段声を小さくして言う。「平井さんがうずうずしているな」
 「なんでそう思うんです?」
 「お茶を飲むペースが遅い。ちょっと我慢して、ビールでのどを潤したいのだろう」

 なるほど、と平井さんとは反対のほうを見ながらぼくは苦笑する。こういう六道さんの洞察力は、さすがだと思う。

@

 22時半。平井さんといっしょに神楽坂ビルを出る。アスファルトは7月末の陽射しを蓄え、いまだ熱を放出し続けている。平井さんでなくても、今すぐビールを飲み干したいと思う夏の盛りだ。
 生ぬるい風に街路樹が揺れる。ぼくはさっきまで自分のいた23階の窓を見上げる。あの光が、もう消えてくれればいいのにと感じるのは、先輩よりも先に帰った後ろめたさからではなかった。あきらかに多すぎる六道さんの業務ボリューム。最近、見ているのがいよいよ苦しくなってきた。

 経理部のシマの中で、二宮課長の向かい側のデスクに座る六道さん。入社3年目、経理部経理課の一般職。ぼくの1年先輩にあたる彼女は、分厚くて野暮ったい丸メガネをかけ、地味な服装に身を包み、およそ愛想というものを知らない。人によってはぶっきらぼうにも取れるほど、淡々とした口調で電話対応をする。事務処理能力は恐ろしく高い。3年目にして、関係会社を含めた神楽坂グループの経理関係者の全員が認めているくらいに。

 彼女が担当しているのは、主だったところで残高管理、固定資産管理、ソフトウェア管理、関係会社の決算資料回収。その上、連結決算の債権債務・取引の消去仕訳の作成も、ある総合職のサブの立場でありながら、ほとんど彼女で完結していると言っていい。もはや一般職の業務範疇を超えている。

 「ちょっと働かせ過ぎじゃないッスかね」
 「だれ?」
 「いや、六道さん」
 「おー、おう。……まあなァ」

 一杯目のビールジョッキを早々に空にして、平井さんは曖昧なあいづちを打つが心は二杯目のビールに奪われている。平井さんはしゃがれ声で、語尾を少し伸ばすくせがある。40手前だが、すでに出世する気もないらしい。近場の居酒屋でおいしい料理を食べているときが一番しあわせそうな表情をしている。サラリーマンにありがちな、昔のささいな自慢話も会社への愚痴も言わない。一回りも違う年齢でありながら全然気を遣わなくていいので、平井さんと飲むのは苦ではなかった。六道さんに接するほうがよほど緊張する。

 平井さんは2杯目のビールの泡をすすってから、指でピースマークを作って「ニノの機嫌損ねることでも言っちゃったんじゃないのー」ウハハ、と無責任に笑う。ニノとはぼくら経理課の二宮課長の通称である。ピースマークは平和への祈りをこめているのではなく、二宮課長を意味する部内でのサインだ。

 「でも、アレだろ。連結の仕事は自分でしたいって言ったんだろー?」
 「らしいッスね」

 連結消去仕訳なんて、自分だったら御免こうむりたい仕事だ。企業の連結決算はグループ内部の債権債務や取引は相殺しなければならない。その一連の仕訳を消去仕訳という。考え方としてはひどく単純な理屈である。高校球児の通算本塁打数が、同じ野球部内の試合でどれだけホームランを打っても、他校との試合でなければ記録されないのと同じだ。

 その連結消去仕訳も、基本的には導入している会計システムで自動作成される。ただし、イレギュラーな取引やマニアックな仕訳は消去仕訳につきものであり、一部は人の手で修正しなければならない。国内外合わせて200以上の関係会社を持つ神楽坂グループだ。一部とはいえ、その修正は膨大な数にのぼる。
六道聖は入社3年目にして、その業務をほとんどひとりでこなしてしまっている。それはグループの経理に携わる人間にとって脅威的な事実である。とはいえ、平井さんのような御仁を除いてなのだが。

 「もしかして、意外に野心家なのかァ」

 モツ煮込みと〆サバと焼きそば(だし醤油風味)をテーブルに並べて、あまり興味もなさそうに平井さんはつぶやく。きっと、六道さんの仕事への取り組み方は理解不能なのだろう。平井さんはワサビを溶かした醤油に、〆サバの端に少しだけ付けてきれいに食す。世界でも類を見ないほど恍惚とした表情である。

 「なんせ、ウラ経理課長ですからね」
 「あー、ウハハハ。このあいだも面白かったよなァ」

 「このあいだ」というのは、開発部門のマネージャーが経理部の脇の打ち合わせスペースで六道さんに懇願していた際のことだ。二宮課長も同席していたが、気性の荒いことで知られるマネージャーが、固定資産のことではすでに六道さんに頭が上がらないらしく、半泣きの相貌をしていた。六道さんといえば「問答無用だ。なぜ期初の計画作成の段階で経理に相談もなく勝手な判断をしたのだ」と撥ねつけていた。そのあまりの威厳と風格に、ぼくらは六道さんのことを「ウラ経理課長」と呼びはじめている。

 「入社してまもないころは、あの口調のせいで現場とずいぶんもめたんだぜ」
 「でしょうねー。慣れたら気にならないッスけど」
 「まあ、慣れたらなァ。はじめは、やっぱり変わった子だと思ったよ」
 
 たしか、大学まで野球やってたんだろー?

 ふいの平井さんのことばに、ぼくは努めてなにげない返事をする。あー、誰かから聞きました。マネージャーってことかと思ってたんスけど、選手だったんですよね。

 「やっぱりピッチャーだったのかなァ。早川あおいに憧れた、とか」

 ウハウハ笑う平井さん。何が愉快なのかよくわからないけれど、ぼくは鳥の唐揚げをほおばり、おなじようにワハハと笑った。
 そのあと1、2杯飲んで平井さんとは別れた。神楽坂ビルの前を通ったけれども、わざと見上げなかった。当たり前のような窓の灯りを見たら、悪酔いを起こしそうだったから。

 だって彼はキャッチャーだったんだぞ――大リーグのとある名監督は、現役時代はほとんど一軍の試合に出たことがなかった。にもかかわらず優れた指揮官になりえた理由について、ひとりのコーチが口にしたのがこの言葉だ。
 六道さんが、なぜあんなに仕事を任せられながらも、問題なくこなせてしまえるのか。仕事が増えるに比例して集中力を高め、まるで早食いのフードファイターさながら、小気味の良いほどさばききってしまえるのか。その理由は、「彼女がキャッチャーだったから」だとぼくはひそかに思っている。

 知っていたさ。六道さんが大学まで野球選手だったことくらい。知っていたどころか、ぼくは野球選手としての六道さんを尊敬さえしていた。ぼくは彼女の一つ下の学年で、一度だけ彼女がキャプテンとして率いる『聖タチバナ学園』と対戦したことがあった。

 2年生の春、練習試合だった。そのころ、ぼくは背番号を持っていたがスタメンではなかった。スタメンには守備と走塁が売りの小兵であったぼくではなく、3年生で打撃力のある先輩が起用された。とはいっても、その先輩も単に身体が大きいので「当たれば飛ぶ」だけだ。ぼくのほうがよっぽどチームの勝利に貢献できるのに、と慢心し腐っている間に、試合はぼくらの敗北で終わった。

 「相手チームに女性の選手がいるらしい」程度の予備知識しか持たずに試合を挑んだぼくの高校と、対戦相手を分析し尽くした六道聖の『聖タチバナ学園』との勝負は、試合前に決着がついていたのかもしれない。
 まさか、その女性がキャッチャーだとは思いもしなかった。野球のポジションで、もっとも身体的な強さを要求されるのがキャッチャーだ。当時の彼女は高校3年生で、女性としては高身長だったけれど、それでも170cmには満たなかっただろう。プロテクターやレガースで身体を固めても、線の細さは否めなかった。
 そんな彼女の手のひらで転がされるように、ぼくらチームのスタメンは翻弄された。命を賭けて野球に臨んでいる高校球児でなければ、多感な青少年の側面がふいにのぞいてしまうものだ。打席で六道聖にささやかれたのだろう、三振を喫したあるものは憤り、ゲッツーを食らったあるものは変にニヤニヤし、見送りで凡退したあるものは涙ながらにベンチに帰ってきた。何を言われたのか、もはや知る由もないのだが、誰もかれも六道聖の術中にはまっていたことだけは確かだ。
 もちろん打者との駆け引きだけではなくて、パスボールを絶対にしない意志に満ちたフィールディング、研究を重ねたインサイドワークに、自軍のピッチャーへの気遣いなど、扇の要としての役割を十全に果たしていた。また、クイックモーションの送球から1塁で刺殺されたランナーもいた。キャッチャーとしての基礎である送球も、彼女は技術によって上肢の弱さをカバーしていた。
 ――ときおり、ヒットを許したあとにキャッチャーマスクを外して、グラウンドを睨みながら思考を巡らせる六道聖の表情。
 彼女は石灰石の白線を境に別次元にいて、まるで揺れ動く戦局を意のままに把握し、試合を操ろうとしているかのように思えた。ぼくはあの日、「キャッチャーという人種」をはじめて目の当たりにしたのだ。それは恐ろしく、見てはいけないものを見た気がした。
 
 3年生になってぼくはスタメンになったけれども、あの日見た六道聖の情熱と、いっしゅ傲慢なほどの信念を、ついに持ちえずに終わったのだと思う。そのせいか、大学に進んで野球をしなくなってからも、『週刊パワスポ』や『野球小坊主』みたいな野球雑誌で六道聖の名を発見するたび、その活躍ぶりを熟読せずにはいられなかった。

 彼女は大学野球でも実績を残したが、ドラフト会議では指名されずに終わった。その後の進路は聞こえてこなかった。それは正当なことだろう。いかにめずらしい女性の野球選手とはいえ、舞台から去った人間の消息を追い続けるほど野球メディアは下世話ではなく、また暇でもないのだから。

 六道さんの固定電話が鳴る。ぼくは会社貸与のPHSで代わりに受ける。

 (おはようございます。秘書課の日和です)

 秘書課長の日和(ひより)ミヨさん。定型のあいさつですら、彼女の声にかかれば何か意味ありげに響いてしまう、妖艶でグラマラスな社長秘書である。

 (あら。六道さんはいらっしゃらないの)
 「昨日から体調不良でお休みなんですよ」
 (へえ、めずらしいのね。お風邪?)
 「みたいですよ。夏風邪にかかっちゃったみたいで」
(それは心配ね。あ、それじゃあ二宮課長に代わってくださる?)

 はい、少々お待ちください、と応えて保留ボタンを押し、ニノ……二宮課長に転送する。
 日和さんは伝票処理に関して、六道さんによく電話をかけてくる。二宮課長に聞くのが一番確実なのだけれど、六道さんがお気に入りなのだ。一度だけ理由を聞いたら「あのコ、こっちの意図をよく汲んでくださるから。お話しするのがとても楽なのよね」と、そんな意外な評価を口にしていた。裏を返せば、二宮課長は融通がきかないということなのだが、あからさまに言わないのが秘書課長たる彼女の巧いところでもある。優秀な人間は、それぞれの部署で自分にとって使い勝手のいい人物を抱えているものだ。

 8月半ば、六道さんはここ2日間ほど休暇を取っていた。週ごとに変わる不安定な気候のせいで、夏風邪をこじらせたらしい。たしかに、同じように体調を崩した人が社内でも何人かいる。だけど六道さんに関して、ぼくは明らかに「無理がたたった」のだと思っている。

 日和さんと同じように、六道さんはいろんな事業部から人気がある。とくに各部門のトップから、「こういった数値資料がほしい」というリクエストを頻繁に受けている。四半期決算が終わって落ち着いた他の経理部員をよそに、六道さんは資料作成に忙しそうだった。8月初めから厄介なリクエストが複数舞い込んでいたことは、ぼくも知っていた。そうした現場からの信頼が羨ましいと思う反面、じっさいに自分が六道さんの立場だったら完璧にこなす自信がない。

 「なあ、ちょっといい?」

 ニノがぼくの背中を突ついてくる。打ち合わせテーブルを指さすので、いっしょに移動する。テーブルで正面向いて座る。

 「どうしたんですか」
 「今日の帰りに六道の家に寄ってくれないか」
 「はい?」

 素っ頓狂な返事をしたぼくをよそに、ニノは言う。

 「一昨日にな、六道に外部セミナーに行ってもらったんだ。中国の課税制度の件で。その日は直帰だったから、六道、セミナーの資料を持ったままなんだよ。お前、寮近いだろ? その資料を受け取って明日会社に持ってきてほしいんだ」

 明日も来れるかわからんからなァ。ニノはさして心配そうでもなく呟く。端正な顔だちと、健康そうな褐色の肌、30後半の年齢のわりに締まった体つきは、仕事への取り組み方と同じく、完璧主義でストイックな証拠なのだろう。

 ただ、何を考えているのかうかがい知れないこの経理課長を、ぼくはどうも好きになれない。サラリーマン生活の中で、何か大事な感情を喪っていき、もう喪ったことにすら興味を示さなくなって、「すべてのセクションにおいて、業界の先頭を貫き通す」という神楽坂グループの企業理念を具現化するため、業務の品質向上と効率化を追い求めている。

 「たしかに、出社できないリスクは排除しないといけませんからね」
 「そうそう」

 ニノの調子を合わせて言ってみると予想以上に嬉しそうな笑顔。不気味ですらある。今にも「お前もわかってきたな」と褒められそうだ。業務の品質向上と効率化よりもニノが重視するのはリスクの排除だ。

 ぼくは内心、苛立ちを感じていた。しかし、おそらくこの苛立ちの大半は、ニノのことばに六道さんに対する気遣いが微塵も感じられないところから来ているのだろう、と思っていた。だからきっと、この感情はフラットなものではない。ぼくは自分を諌めた。

 社内の部門ごとに表示される電話帳。
 壁にかけられた課員の名前入りのホワイトボード。
 まるで球場の電光掲示板に表示される打順のようだ。名前の右側にあるのは守備位置の番号ではなく、社内の内線番号という違いはあったが。

 入社当時、自分の名前と六道聖の名前が並んでいるのは、なぜかふしぎな気持ちにさせられた。六道聖の名前を、神楽坂グループみたいな大企業の経理部で目にしたことにぼくは少なからずショックを受けた。大学でプロ入りできなくても、どこかで野球を続けていると思っていたから。
 人違いと信じたかったが、神楽坂グループの六道さんが、まごうことなくあの六道聖だと受け容れると、次に、ぼくは野球の思い出話をしてみたくなった。とくに、ぼくの高校と対戦したときのことを覚えているか、質問したかったのだ。
 でも、六道さんが野球の話題を「なんとなく避けている」ことを同じ経理部の人から聞き、会社の野球部にも関心を示さない様子を見て、ぼくも野球の話題を振るのを自重した。たとえば経理部の飲み会で野球の話になったりすると、ぼくはなぜだか、別の話題に逸らそうと躍起になった。秘密を暴こうとしたがる周囲の悪趣味への抗いと、かつて、あれほど六道聖が野球へかけた真摯な姿を陳腐化させたくない気持ちが、ぼくの中でないまぜになっていたのかも知れない。

 駅前のコンビニで、ゼリーをいくつか買った。お見舞いの品。透明なぶどうのゼリーは、子どものころに冷蔵庫にあるとなんだか幸せな気持ちになったものだ。

 街灯の続く線路沿いの道を帰る。多数の路線が連結するこの街は、閑静なベッドタウンとして会社の寮や単身赴任者向けのマンションやアパートが立ち並んでいる。帰路に着くサラリーマンは一様にワイシャツをくたびれさせ、ビジネスバッグと、スーパーやコンビニの、ひとり分の食事の入ったビニール袋を手にしている。

 仕事には慣れた。社会人はもっとオトナだと思っていたのに、彼らを支配し動かしているのは、いくつかの社会の規則や法令、子どもじみた負けん気、そして一握りの人間たちの強烈なリーダーシップとわがままだ。
 それだけ理解すれば、生きていくのはたやすい。不安になるほどに張り合いがない。日々は残酷なほど足早に過ぎて、いつのまにか給料は今よりずいぶんあがり、気がつけば有能な経理課長にもなっていたとしても、だからそれが何の意味を持つだろう。

 なまぬるい風が吹き抜けて、考えることをしばしやめる。空を見上げて、金髪の月が浮かんでいるのに目を留める。

 小さいころは、景色に想いを託してきた。

 野球部の部室には青春期の懊悩と喜びがあった。実家の庭のキンモクセイには親に包まれている安心感が、小学校のツツジの丘には先生との些細ないさかいで味わった苦みが、景色に彩りを添えてぼくの記憶に残っている。

 ――いつか、このベッドタウンの景色を、懐かしく思い出すことがあるのだろうか?

 答えは心から返ってこない。月は薄い雲に隠れる。

 六道さんの家が近づいて、緊張するのが自分でわかる。聞くところによると男の寮よりも5平米は広いという女性一般職の寮は、駅前5分の8階建マンションのいくつかの部屋を借り上げたもの。白くすべすべした外壁と、カードキー方式というセキュリティ面からして豪華だ。ぼくの寮は駅から10分以上は歩いたところにある。男女の不平等を少し恨めしく思う。

 エントランスにあるインターホン。六道さんの部屋番号を押して呼びだす。間隔があって、『はい』と六道さんの声。セミナー資料を取りにきたと用件を伝えると、ああ、と返事があって『入れ』と六道さんは言った。あいかわらず愛想も色気もないものだ、と思っている間にガラスのドアがあく。インターホンごしにお礼をいってマンション内に入る。

 ゼリーを渡して、お返しのように資料を受け取って、ただそれだけの予定だった。甘い見通しは必ずどこかで狂う。ぼくの予定はほんの初っ端でつまずいた。

 「悪いな」

 と、部屋のドアを半分あけた六道さんは白い半襦袢にステテコ姿で、その無防備な姿にぼくはあっけに取られてしまった。きっと、目が点になってしまっていたのだろう。六道さんはぼくの反応に、自分の格好に視線を移してから「おかしいか?」と聞く。

 「いや、めずらしい、と思っただけです」

 襦袢にステテコなんて、この時代に。「ちょっと待て」――六道さんはドアを閉めてガチャと鍵をする。しばらくしてから、またガチャと解錠の音がして、六道さんが姿を見せる。薄紅の着ものをまとって。「見苦しいものを見せてしまったな」と、こんどは自信満々だ。間違っていると思う、とは、先輩相手に言えるはずもなかった。

 そのあとの先輩の発言にも、異を唱えられるはずもなく。

 「資料をまとめるから、ちょっと上がっていけ」
 「は?」
 「部屋の前で突っ立っていられるのも不自然だ」

 西側にベランダのある六道さんの部屋は、まだ昼間の熱が残っていて、むっとしていた。
 家具はすべて白か木目調で、無駄な装飾がひとつもないところが六道さんらしい。華やかな色は乏しかったが、女性らしく整頓されている。本棚には、経理関連の参考書がずらりと並んでいて、隅にすこしだけ、プロ野球の大御所と言われる監督の著作があったりした。その監督はキャッチャー出身だった。
 着物の六道さんは汗ひとつかかずに、鞄の中の資料を取り出して整理している。ところどころ貼っていた付箋の中で、いらないものを外したりしている。この暑さで、よく平気でいられるものだ。

 「あのー」
 「なんだ」
 「……暑くないんですか」

 六道さんはエアコンのリモコンに目をやるが、すぐに手もとの資料に視線を戻す。

 「夏風邪をひいたのははじめてだ。きっと、くーらーを使ったせいだろう」
 「なるほど」

 どうやら、クーラーと相性がお悪いようだ。

 「御仏の怒りを買ったのだ。横文字の白物家電に気を許すなど言語道断だと」
 「みほとけ?」
 
 風邪の熱が引いていないのだろうか、と訝ったが、六道さんは大マジメな顔つきでいる。そういえば、六道さんの実家は御寺だという話を思い出して、独り合点する。しかし、そこから仏教論を繰り広げるほどぼくは博学でもなく、話題を変えようと試みる。

 「あ、これ、お見舞いです。ゼリーですけど」
 「む。……ありがとう」

 素直にお礼のことばを述べるのもめずらしいな、と思っていると、一拍して「ただ、もっと気のきいたものを持ってきてほしかったな」などと言う。それが照れ隠しなのか正直な感想なのか、底意のわかりづらい六道さんである。

 「気のきいたもの、ですか」
 「そうだ」
 「たとえば?」
 「パワ堂のきんつば」
 「きんつば」……お見舞いで「きんつば」は、ぜったい思いつかないと思う。
 「もしくは、ところてんの黒蜜添え」
 「酢醤油でしょう。ところてんは」
 「ふん……邪道だな。黒蜜に決まっているだろう」
 「いえ、それだけは間違っていると言いきれます」
 「それだけ?」
 「あ、こっちの話」

 じゃあ食べてみるか、といって六道さんは冷蔵庫を開ける。
 黒蜜付きのところてんがびっしり。
 あるのかよッ! とはもはやツッコまなかった。
 なんだか疲れてきた。ツッコミどころ満載で、つかみどころのない六道さんである。

 ずず、ずずッ、ガラスの器に盛られたところてんをすする音と、外ではわずかに蝉の鳴き声。都会の蝉は夜でも鳴くものらしい。きっと、灯りが多すぎるんだ。そんなことをぼんやりと考えていた。思考を飛躍しなければ奇妙な現実を直視しなければならないので。

 (……なんで、六道さんの部屋で、ところてん食べてるんだろう?)

 好みの問題なのだろうけれど、正直、黒蜜はあまりおいしいとは思えなかった。箸の進まないぼくを尻目に、六道さんはおいしそうに顔をほころばせている。そんな顔で「美味いだろう」なんていうもんだから、「そうですね」としか言いようがなく、無理やりに食す。
 ところてんをすすりながら、ぼくは六道さんに聞いた。

 「体調、すこし良くなりました?」
 「うむ。2日休んだからな。明日は出社するつもりだ」

 平然という六道さんだけれど、やっぱり治りきっていないようで、顔色は悪いし、冷蔵庫に向かう足取りもだるそうだ。……冷蔵庫? 六道さんは二つ目のところてんに手を付けはじめる。

 「念のため、明日も休んだらいいんじゃないですか」

 ずず、ずずッ。六道さんは、まるでぼくの言うことなど聞く耳持たない、そんな風情だ。ぼくは何故か無性に腹が立った。後輩扱いする六道さんの態度のせいでもある。しかし、彼女を突き動かしているものの得体の知れなさが、ぼくをずっと苛立たせていたのだと、そのときはじめて理解する。

 「生意気いいますけど、ちょっと無理しすぎですよ。六道さんががんばり過ぎる影で、楽な目をしてる社員がいっぱいいるってのに。おかしいって思わないんですか。そんなに、仕事が楽しいんですか?」

 ずずずッ、ひとしきりところてん(黒蜜添え)をすすってから、六道さんが目をあげる。眼鏡ごしの赤い瞳が、燃えるような緋色に変わる。と、まばたきをして、瞳はいつもの色に戻る。

 「楽しいと思ったことは、一度もない。それなりも達成感はある。
 でも、それが楽しいこととは、必ずしも同じではない、と思う」
 「じゃあ、なぜ」
 「なぜ?」

 2つ目のところてんを食べながら、考え込む。最後のひとすじをつるりと口に入れて、六道さんは口を開いた。

 「うむ。なぜだろうな。……そうだ。こんな空想を、お前はどう思う?」

 見開かれた大きな瞳。六道さんは静かに語り出す。その表情は、もう未来を描くことも忘れた老人のようにも、世界の一切をいまだ知らずにいる子どものようにも見えた。

 私の実家は西満涙寺といって、多くの檀家さんを抱える由緒ある寺だ。寺の裏には、少しばかりの墓地もあった。私はそこを遊び場にして育った。墓石や卒塔婆が並んで、子ども心に私は、人は死んだら、墓石のように硬く冷たい石の姿になるのだと信じ込んでいた。

 大人になってから、それは子どもじみた勘違いだとわかった。誰にも口にしないでよかった、赤っ恥をかくところだったと、思い返すたび、ひとり安堵したりもした。

 しかし、もしかしたら、そうじゃないのかも知れないと思いはじめた。会社勤めをしだしてから、だんだんと、私は「揺るがなく」なっている。石のように心が強固になっていくのを感じる。かつて、あんなに水分を吸収して心は潤っていたのに、いまや硬くなった身体は水をはじいて私を満たさない。そう、まるで墓石になっていくように。

 幼かった日の勘違いは今、まったく私の実感に近しい。

 やがて墓石になったとき、私の人生は完成する。あの、実家の裏の墓場のひとつと同じようにな。そうなったら、今のこの物憂い気持ちもなくなって、楽になるのかも知れない。

 ――最近、そういうふうに思っているのだ。

 鞄の中には、六道さんが言ったセミナーの資料。ところどころにメモ書きが走っていていた。あまりに達筆すぎて、解読するのが難しいほどだったけれど、きっととても重要なことがらなのだろう。そんなことを、ぼくは帰り道に考えていた。

 彼女は、すっかり変わってしまおうとしている。高校時代の六道聖と。

 聖タチバナ学園との練習試合が終わって、ほうぼう帰り支度をする中、ぼくは先輩たちのさして悔しくもなさそうな表情にくさくさしながら、球場のバックネット下にある休憩室に向かった。スポーツドリンクでも買うつもりだった。
 でも結局、ぼくは何も買わなかった。彼女が、休憩室の入り口のそばにある給水機の前にいた。少し水を出して、その水のカーブの端を指でピッと払い、口を近づけて飲む。手の甲で口を拭う姿。
 ぼくの視線に気づいたのか、六道聖はおもむろに顔をあげてこちらを凝視した。凝視、という言い回しが、ぼくの人生の中で最もしっくりくる場面だった。
 そのたたずまいを何というべきだったか。そのとき、ぼくにはわからなかった。ただ、ぼくは悲しくなり、そのあと申しわけない気持ちになってしまった。
 彼女の長い髪は砂ぼこりに光沢をなくし、テーピングをした指先は荒れ、キャッチャーとしての厳しい修練を物語っていた。充実した疲れを身にまといながら、鋭いまなざしをぼくに向けていた。
 あのときの自分の感情を忘れたことは無かった。それは、彼女が(知らないうちに)いろんなものを引き換えにして野球とともに過ごしてきたことへの憐憫と、それ以上の畏敬の念だった。同世代の少女と同じような青春を謳歌することなく、女性というだけで異端視される野球というスポーツに、彼女はどうして情熱をかたむけるのか――きっと、理由などなかったのだろう。ぼくはそのとき、確信に似た気持ちをいだいた。

 寮の近くのコンビニで、夕食に十割そばと缶ビールでも買おうとすると、特徴的な言葉づかいとともに肩を叩かれた。同期の矢部明雄だった。

 「こんな時間に帰ってくるなんて、珍しいでやんすね」
 「経理部門は季節労働者だから。いまの時期はこんなもんだよ」
 「なるほど、オフシーズンでやんす」
 「まあ、似たようなもんかなァ」

 久しぶりに会ってコンビニで別れるのも何なので、近くのラーメン屋で食事をすることにした。また、今日という日に、矢部と出くわしたことは意味深に思えた。矢部は神楽坂グループの野球部に所属していて、プロ入りを目指している。

 「あれ、相方は?」
 「相方って言わないでほしいでやんす。
 小波くんは別にしても、オイラは芸人って柄じゃないでやんす」

 「あ、そう」

 矢部は意外とルックスに自信を持っているらしく、ビン底メガネの風貌をいじってみてもあまりよいリアクションを返してくれないので、最近は深く触れないようにしている。

 「まだ練習してるでやんす。最高の決め球を開発中! らしいでやんす」

 あ、小波ってピッチャーだったんだ、と心の中でつぶやく。なにせ同期が100人以上いるので、プロフィールの詳細まで覚えきれていない。ただ、入社式で一人ずつ挨拶をする社員の中で見た、スポーツマンらしい小波の屈託のない笑顔と、長年野球に打ち込んできたらしい筋肉の付き方は、なぜか懐かしい気分にさせられたのを覚えている。

 野球部でレギュラーの座をつかむには、定期的にある昇降格試験で結果を出さなければならず、2年目の夏も結局、1軍に上がれなかったという話を矢部は悔しそうに語った。そして、同期の選手に神楽坂グループの御曹司がいるらしく、「ソイツの高慢ちきな態度が無性に腹立つんでやんす!」と、矢部は右手にジョッキ、左手に握りこぶしを作って吠えていた。
 ぼくは聞き役に回った。矢部の話は面白かった。自分自身への憤りがあるばかりで、サラリーマンが酒の肴にする周囲の環境への不満や同僚を蔑む話題はなかった。清潔で、純粋な印象がした。矢部の風貌をあらためて眺め、失礼ながらギャップに驚いた。

 「何の半ニヤケでやんすか」
 「いや、何でもない」

 ぼくは1杯目のビールを飲み干す。矢部は3分の1も減っていない。

 「あんまり飲めないんだっけ?」
 「んー、そうでもないでやんす。ただ、アルコールは身体を酸性にするでやんす。酸性になると怪我が治りにくくなる、だから飲みすぎないようにしているでやんす」

 おー、さすがアスリート。ちょっと感心する。矢部は口角を上げてドヤ顔。

 ぼくはふいに六道さんを思い出した。会社の飲み会で、ちびちびと焼酎水割りを飲んでいる六道さん。彼女もまた、アルコールの悪影響を気にしていたのだろうか。
上司である経理部長(彼の仕事はパソコンでカードゲームに興じることと、めくら判を押しまくることだ)にけしかけられ、日本酒のお相手をすることになった六道さんは、部長の酩酊をよそに、同じペースで5合分を飲んでも平然としていた。おそらくザルなのだろう。
 六道さんの顔が浮かんで、ぼく頭をふって2杯目のビールに口をつける。彼女は明日、部署内で休みをもらったことを謝罪したあと、いつもどおりの尋常じゃない仕事ぶりを見せるだろう。彼女が休んだことでわずかな残業を余儀なくされて愚痴をこぼした、レベルの低い他の一般職たちは当然のように定時に帰社する。六道さんは彼女らに一瞥もくれず、二宮課長の指示のもと、中国の課税処理を経理担当役員に説明するための資料をA3横のサイズで美しくまとめあげるだろう。――そこに何の喜びを見いだすことなく。

 墓石が何だ、実感がなんだ。六道さんはまったく鈍感だ。それが他人の耳に、どれだけ絶望的に響いているか御存知でない。
 
 彼女の選択は利口だった。大学でドラフト指名という結果を出せなかったので、一転、神楽坂グループという安定した企業で事務仕事することを選んだ。世間的に見れば、みごとな決断と実行力だ。
 それでも、自分の心を偽った選択に苦しめられ、しかもそれを受け容れられずに戸惑っているのだとしたら、世間様の眼にどう映ろうと、愚かな振る舞いでしかないじゃないか。

 「どうしたでやんす、急に黙りこんで」
 「え、ああゴメン。ちょっと考えごとしてた」
 矢部は温野菜サラダのキャベツをつまみながら、少し茶化して言った。
 
 「サラリーマンの悲哀ってヤツでやんす!」
 「ちがう、おおいにちがう」
 「ガンバって作った企画書を目の前で上司に投げ捨てられて非常階段でひとり膝を抱えたでやんすね?」
 「そんなCM的な展開ないよ、オレ経理部だし」

 矢部は案外マジだったらしく、「そうでやんすか」とふつうに返してきた。ぼくは吹き出しそうになった。今まで関わりが薄かったけれど、いい奴だと思った。
 ぼくは子どものころの友人にするように、矢部に相談していた。

 「……経理部の先輩にさ、むかし野球をしてた人がいるんだ。大学まで野球を続けていたんだけど、ドラフトにかからなかったから、一度は野球を諦めた」
 「ふむでやんす」
 「これは想像なんだけどね、今でも野球を忘れられないみたいでさ、見ていて痛々しい。だけど、他人の人生をとやかく言えないじゃないか。だから、どうしたらいいのかと思って。さっき考えてたのは、その人のこと」
 「なるほど、」

 矢部はおもむろに、ぼくに握手を求めた。なぜに?

 「?」
 「野球部にようこそでやんす」
 「いやいや」
 「みなまで言うなでやんす。夢を見ることに終わりはない、青春に期限なんてないでやんす!」

 矢部は眼鏡ごしに目をうるませている。

 「だーかーらー、オレのことじゃないって」
 「あ、違うでやんすか。てっきり、復活フラグかと思ったでやんす」
 「現実はもっとひねっているさ」
 「台本どおりではいかないでやんす。……ちなみに、その人のポジションは?」
 「キャッチャー」ぼくがじっさいに見た中で、いちばんのキャッチャーだ。

 矢部が歌うようにこう言った。何かの詩だろうか。

 「木がきこりと/少女が血と/窓が恋と/歌がもうひとつの歌と……」

 ぼくはきょとんとして、ビールを一口飲む。

 「歌を忘れたカナリアには/盲いた少女のあわれみを。
 そして、挫折したキャッチャーには……」
 「キャッチャーには?」
 「才能あふれるピッチャーが必要でやんす」

 矢部は人差し指をまっすぐ立て、ドラマの探偵のように言った。そんなものかなと思う。
 一品料理をいくつか食べ終えて、ラーメンを頼んだ。ぼくは坦々麺を、矢部はつけ麺をオーダーした。ぼくは矢部に質問した。六道聖に釣り合うほど才能溢れるピッチャーなど、めったにいるものではない。

 「神楽坂に、良いピッチャーはいるのか?」
 「いる、とっておきのエースがいるでやんす」

 矢部は自信満々に言った。

 「誰だよ」
 「我らが同期、おそらくまだ決め球開発中の、オイラの相方でやんす」
 
 小波。
 純粋培養のスポーツマン。いわゆるペーパーテストは苦手だけれど、機転が利く体育会系まっしぐらな男。およそ迷いも苦悩も知らないあっけらかんとして爽快な日本男児。それが小波の印象だった。

 「ストレートなら140/h後半はコンスタントに出すでやんす」
 「マジで!?」

 ちょっとテンションがあがって声が大きくなる。店員が怪訝な顔をしつつ坦々麺を持ってくる。ちょっと恥ずかしい。矢部の魚介スープベースのつけ麺が運ばれてくる。

 「こういうのはどうでやんす」

 矢部はつけ麺のスープに玉子やシナチク、のりを入れた。うまそうに太麺をすすったあと、挫折したキャッチャーと才能あふれるピッチャーを巡り合わせるアイデアをぼくに伝えた。
 
 「そんなうまいこといくかなァ?」
 
 ぼくは懐疑的だった。ヘタすると両者に混乱を招きかねない。
 だけど矢部は得意げに言う。

 「ぐふふ、キミは物語の構成をわかってないでやんすね。ふたりが本物の主人公であれば、運命の出会いとなる場面でやんす。そのあとの展開は、そう、予定調和でやんす」
 「予定調和ねぇ……」
 
 玉子を口に含んだあと、矢部の逆襲がはじまった。

 「さっき『現実はもっとひねっている』と言ったでやんすが、」

 いやはや、負けず嫌いはスポーツマンに通有するものなのだと、ぼくはあらためて思う。

 「現実のたいていは、呆気ないほどシンプルにできてるのでやんす」

 8月20日、夏がまだしぶとく暑さを発散する平凡な真昼どき、矢部の言うところの「運命の出会い」は起こった。

 野球部の室内練習場に六道聖は訪れ、やる気が漲るせいで明らかに空回る小波の荒削りな投球を遠くから眺めた。六道聖につかまれた緑色のネットは、無意識に力がこもるあまりにその四角い均整のとれた細やかな編み目を歪ませていた。
 彼女は30分ものあいだ緻密に、執拗に彼を観察しつづけ、そして小波が彼女の存在に気づいたとき、ぼくの予想していた戸惑いもそこそこに、六道聖は1カ月分の給与の入った封筒と、わずかな言葉を小波に残して去った。小波は言われた言葉を反芻するようにつぶやいて、妙に力の抜けた様子で投球練習を再開した。
 その日、六道さんはめずらしく仕事を早く終わらせて退社した。どこに行くのか、ぼくはもう気にならなかった。ふたりはともに本物だった、それだけのことだろう。

 それからのことはよく覚えている。
 きっと、ぼく以外の経理関係者にとっては厄介ごとでしかなかったはずだ。二宮課長と六道さんがふたりで打ち合わせをする場面が多くなり、ゆっくり、しかし確実に、彼女が抱えていた膨大な業務は事務の女性陣に、外部のアウトソーシング業者に、そして総合職の人間に振り分けられた。比例するように二宮課長の六道さんに接する態度は素っ気なく変わっていった。
 気分で仕事をするわがままな一部の女性が、ヒストリーを口の中で転がした態度で二宮課長に不平をもらすたび、六道さんは冷静に対応した。みずから業務を棚卸して完璧にマニュアル化し、作業を簡潔に説明することで、盗塁を試みるランナーを刺殺するように1人ずつ沈黙させるのだった。
 中でも、もっともヘビーな仕事のひとつはぼくが引き継ぐこととなり、半年間のあいだ六道さんの要求の高すぎる指導を受けて、昼夜を問わず自己嫌悪にさいなまれ、苦悶に喘ぐはめになった。

 ここで時間は、六道さんが夏風邪から復帰した日に遡る。
 彼女は定時の17時20分までに、二宮課長が想像していた以上に美しい資料を完成させた。そのあとも、三次元マスクを付けながら、さまざまな事務処理を無駄なくこなしていた。
 ぼくは矢部のアイデアに基づき、小波にメールを送った。差出人の表示名とメールアドレスを六道さんのものになるよう設定変更して。

『小波さん
お疲れ様です。経理部経理課の六道です。毎月のことですが、20日に給与をお渡しいたします。
しかしながら、今月は休憩所までお越しいただく必要はありません。何でも、昼休み明けの30分程度、CEOが野球部の練習を見学なされるらしいので、皆様のお邪魔をしないようにとの経理部判断です。
つきましては20日の午後13時30分、室内練習場までお持ちします。
以上、どうぞよろしくお願い申し上げます』

 神楽坂CEOが来るとなれば、小波がアピールしようと室内練習場でピッチングを披露するのは簡単に想像できた。
 (ちなみに、神楽坂グループに所属するスポーツ選手たちの給与は、銀行振り込みではなく手渡しである。何でも過去に、銀行振り込みだと奥さんにカードを握られ、スポーツ用具を自由に買えなくなると具申した選手がおり、経営陣がその意見を尊重したためだという。経理部からすると、手間でしかないのだが……)

 次に、同じような手順で、今度は差出人・小波のメールを六道さん宛てに送った。

『経理部 六道さま
突然のご連絡で申しわけありません。お願いがあるんです。貴方を、あの聖タチバナ学園の六道聖と知ってのことです。
現在、キャットハンズに所属する橘みずきの変化球を、高校時代に受け続けたというのはほんとうでしょうか? プロのキャッチャーですら、パスボールをしないように神経を使うという『クレセットムーン』、ああいう変化球を、オレは今、編み出したいと思ってるんです。
20日は給与支給の日です。もし差し支えなければ、室内練習場に来てもらえませんか。昼過ぎの13時。無礼は承知の上です。
恐縮ですが、ぜひ、ご協力のほどよろしくお願いいたします。以上』

 クレセットムーンのくだりは、変化球を開発中だという小波が頻繁に口にしている、と矢部から聞いたからだ。使わない手はなかった。
 ぼくはしたことは、差出人を偽り、2通のメールを送った。たったそれだけのこと。ぼくは愉快だった。矢部には、こころよく完敗を認めなければなるまい。

 経理部員がもっとも酷使される総決算の集計が終わり、決算短信が社内の最高意思決定機関である取締役会で承認された日、六道聖の特訓の甲斐もあって、小波は「最高の決め球」を完成させた。

 1ヵ月ほとんど休みなしで働き続けたぼくは、沖から岸辺に命からがらたどり着いた漂流者さながら、安心のうちに疲労が癒されていくのを感じていた。取締役会の承認後、すみやかに公表された神楽坂グループの決算数値は、世間の不景気をよそに過去最高益を達成しており、株価は面白いように上昇し、主要メディアの報道記事が広報室から経理部宛てに連絡されたが、ぼくはもはや息を整えることで精いっぱい、その日は早々に仕事を切りあげた。
 19時。野球部の室内練習場に向かう。
小波と六道さんの特訓を見学に来るように、矢部から何度か誘われていた。「バッテリーの、『水も漏らさぬ緊密な会話』を聞きに来るといいでやんす。キミには、その権利があるでやんす」。矢部は気取って、そんなことをよく言った。
決算が終わった今日、ようやく仕事も気持ちも落ち着いて、野球部へ足を向ける気になれた。
 六道さんはぼくよりも早く仕事を終えていたから、ブルペンにいるものだろうと思っていたが、姿は見えなかった。室内には打撃練習中の選手が数人見える。木製バットがボールを打つ音。子どものころ、プロ野球観戦に行ったときにいだいたあの選手たちへの憧れと感動が、今こうして、自社の野球部の施設内にあって、打撃音の高い響きを聞くうちに思い起こされた。胸の奥が震えて、ぼくは何だか不思議な高揚感と、過ぎ去った日々の感情が決して元には戻らないことへのさびしさを感じた。

 「おっ、ついにキーマンが来たでやんす」

 練習場に入る通路の中、練習用のユニフォームを着た矢部が、後ろから声をかけてきた。

 「なんだよキーマンって」
 「物語上、欠かせない脇役とも言えるでやんす」
 「脇役かよッ。で、小波と六道さんは?」
 「ランニングに行ってるでやんす。投手は走り込みを怠ってはならぬ! との六道さんの掟でやんす。ちなみに掟は半年のあいだで、技術的なものから精神的なものまで含めて99にまで達しているでやんす」

 99の掟に、覚醒した六道さんの本気さがうかがえた。六道さんの指導の厳しさについては、ぼくも十二分に味わった人間のひとりなので、小波の苦労に同情してしまった。
 ぼくと矢部はふたりを待つ間、室内練習場の外側にある通路に設置されたベンチに腰かけていた。

 「まさか、噂のキャッチャーが女性だとは思わなかったでやんす」

 矢部が言う。
 「本物のキャッチャーだっただろ?」
 「予想以上でやんす。早く、正式に野球部に入ってほしいでやんすよ」

 6月の株主総会が終われば、管理部門内の人事異動が始まる。きっと六道さんは経理部から異動するだろう。本格的に野球を再開し、一度は挫折した球界入りを目指す。――安定した生活を放棄して、あの高校時代と同じように、それ自体には一銭の価値もない栄冠を追いかけた日々へと戻る。
 自分のした行為に後悔はなかった。残酷だとも思わなかった。運命をもてあそぶ神様のような力をぼくが持っているはずがなく、遅かれ早かれ、同じことは起こったはずだ。六道聖はこうして小波を見つけたが、もし小波を見つけなかったとしても、いずれ小波に似た才能あふれる投手を見つける。風船が手を離した途端に空へ舞い上がるように、さも当たり前な表情をして、出会いは彼女に降りかかる。

 小波と六道聖がランニングから帰ってくる。ふたりは春夜の香りと、清潔な汗の匂いをまとって、まるで長年連れ添った夫婦のように、次の練習について少しのことばを交わして離れた。

 六道聖がぼくに気づいて眼を丸くした。丸メガネをはずして、ハーフアップにした髪型の彼女の姿は高校時代と少しも変わらなかった。なにより野球に接するときの鋭く集中した様子と、抑えようとしても溢れ出る溌剌とした雰囲気に、ぼくは思いがけなくどきりとする。
 彼女は、いたずらが見つかった子どものように、ばつの悪そうな顔をして弁解した。

 「せ、説明していなかったのだが、実は私は野球部の協力をしているのだ。経理の仕事と、野球部の活動は両立できようとは考えられなかった。そのために、業務の一部を削ってもらった。
 理解が得られるとは到底思えなかったから黙っていた。経理部のみんなには申しわけないと思っている……」

 伏し目がちに彼女は謝った。素直に謝罪する六道さんに困惑し、ぼくは慌てて答える。

 「い、いえ、はじめから知ってました。六道さんが野球をしたいことくらい」
 「むむ。はじめから?」
 「あ、じつは小波と矢部はぼくの同期なので、六道さんが野球部の協力をしていることは、何度か聞いてたんです」
 「そうか……私のことを聞き及んでいたのだな」六道聖はすっと肩をおろし、息をついた。「だから、とくに重要な仕事を文句も言わずに引き受けてくれたのか。直接、事情を打ち明けず悪いことをした。そして、……感謝するぞ」

 嬉しそうに眼を細め、涙目になりながら六道聖は言った。ぼくは高校以来、久しぶりに彼女のことを綺麗だと思った。
 それから彼女は更衣室へ行き、プロテクターを装着して戻ってきた。ぼくの座るベンチの隣でうずくまってレガースを付けた。小波の投球を受けるために、てきぱきと準備を進める。遠く室内練習場のネットの向こうで小波は矢部とキャッチボールをしている。
 六道さんは立ちあがり、思いがけないことを言う。

 「練習を見て行かないか」
 「えッ?」
 「ずっと開発に付き合っているのだが、小波の決め球が完成しそうだ。野球を知らない人間だと退屈かも知れないが、精通している人間にとっては、なかなか刺激的だと思うぞ」
 「いえ、もう帰ります。最近ずっと仕事で寝不足だったんで」

 ぼくは、もはや小波と矢部、そして六道聖が別の世界の人間であることを感じる。彼らの人生は烈しさを目の当たりにして冷静でいられるには、ぼくは未熟で幼かった。六道さんの言った「揺るがない」心境に至っていない現在、ぼくはぼくの為すべきことを為すしかないのだ。

 「そうか、ではまたな」

 六道聖は、レガースのカチャカチャとした音をさせながら練習場に向かう。帰ろうと踵を返したとき、ふと、彼女のことばがひっかかった。野球を知らない人間だと退屈かも知れないが、野球に精通している人間にとっては。……
 捕球音や打撃音、懐かしい音の重なりの中に、彼女のつぶやきが聞こえた気がした。

 (私も、お前のことは知っていたぞ。良いセカンドだと聞いていた)

六道聖もまた、ぼくのことを覚えていたことを知る。
それだけでぼくは満足だった。

 ぼくは思った。
 経理部に配属されてはじめて六道さんの存在を知ったときの驚きや、あきらかに多すぎる業務ボリュームをこなす六道さんを見るときの得体の知れない感情を、彼女もぼくに持っていたのだろうか。だからこそ、六道さんは熱のこもる自分の部屋で、閉塞した自らの想いを打ち明けたのだろうか。
 しかし、ぼくは本物ではなかった。情熱の火をくべるための薪(たきぎ)はすでに仕舞われている。六道聖の期待には応えられない。もはや寂しくなかった。ぼくの気持ちは澄んでいて、湖のように静かで安らかだ。
 たとえ日々の生活に疲れても、厭気の指すできごとに心が塞ぐことがあっても、思い出を忘れさえいなければ、心が乾いて墓石のように硬直することはない。

 六道さんは「感謝する」と言った。
 ぼくもまた彼女に感謝する。

 高校時代の一瞬、そして神楽坂グループで同じく過ごした時間の中で、彼女が見せてくれた尽きない情熱と、切なくなるほどの純粋さは、いつくもの美しい思い出の中でもっとも冴えながら、これからもぼくという器を満たしてゆく。そんな気さえするのだから。


| パワプロSS | 19:49 | comments(2) | trackbacks(23) |
君の願いを僕の願いに

パワプロ小説礼讃

『バンダナ』 ――ゴズィラさん(誰と幸せなあくびをしますか。


芥川龍之介の短編小説の『トロッコ』。あらすじはこのような感じである。

近くで始まった鉄道敷設の工事で、少年は土を運搬するトロッコに興味を持つ。ある日、ふたりの親切な土工さんと仲良くなり、ぞんぶんにトロッコを押すことが許される。はじめは有頂天になっていた少年だったが、トロッコが家を遠く離れ、日も暮れていくにつれて不安になってゆく。そして行き着いたところで土工さんから「もう帰んな」と言われ、たった一人で歩いて帰ることになる。
少年は、これまでの人生で一度に歩いた距離の3、4倍はあろうかという道のりを、落ちていく夕陽とともに、泣くのをこらえながら帰っていく。そして家にたどり着いたとき、少年は大声でわっと泣き出す。――少年は大人になっても、ふと、その日の「薄暗い藪や坂のある路」を思いだすことがある。

(ちなみに、青空文庫で無料で読めるので、ご興味のある方はぜひ)

と、パワプロ小説礼讃であるはずなのに、芥川龍之介の『トロッコ』のあらすじを説明したが、藪から棒に、というわけではない。すでに公開されていないが、われらが盟友・ゴズィラさんに『バンダナ』という掌編がある。この作品は、パワプロ9のキャラクターである六本木優希と、同じ病院に入院しているらしい少女という、ふたりの登場人物で構成されていた。

重篤な病の床に臥す少女は『トロッコ』を愛読しており、「主人公の男の子に憧れている」という。脳の病気なのか、薬の副作用なのか、髪の毛を短くそろえ、バンダナを巻いた少女である。六本木は『トロッコ』を切なくて読み返せない、と言うが、少女は、作中の少年が無邪気な願望を叶えたように、自分も夢を実現させてみたい、と六本木にこぼす。彼女の願いを聞いて、返事を臆する六本木に、彼女はなおも続ける。

「じゃあさ、ユウキが代わりに、私の願いを叶えて」

少女の言葉を、六本木の耳を通じて、作者はこう表現していた。「今だとばかりに胸の奥底に詰まっていた悪玉を全部吐き出した様な、ただただ優しい口調で」。それはきっと純粋な客観的描写ではなかっただろう。六本木もまた、脆い身体に宿る灯を消さないように注意深く生きてきたのであって、そんな六本木にとって、少女の願いは哀切であると同時に重すぎるものだった。不治の病に冒された少年のためにホームランを打ってみせた、あの屈強な「ベーブ・ルースにはなれないんだよ」、と六本木は懺悔する。

少女は、自分のバンダナを六本木に譲る。六本木はそれをためらわず巻いてみせる――それは少女の願いを託されたことを意味する。それから少女は、絶望的な言葉を口にしようとする。六本木は制すると、少女は六本木のことを「優しいね」、という。ただただ、お互いに優しさだけを分けあう。

最後に、六本木に持病の発作が起こる。ナースコールを押す以外は、全身に激痛が走って動くこともままならぬほどの発作である。隣のベッドに横たわって苦しむ六本木に、少女はいう。

「私もごめんね。今の私じゃ、貴方を見守ることしか出来ないの」

六本木は、みずからの呻きと反比例するように、大きくかしましくなる蝉の声を聞く……。意識がフェードアウトするとともに、蝉の鳴き声だけが残る、映像的な幕引きである。

ぼくは、最後の場面を読んだとき、なんて無力で哀しい関係なのだろうと感じた。見つめ合うことしかできず、悲恋にも至ることなく終わるだろう、ふたりの関係は残酷である。願わくば続編として、ベーブ・ルースとなって少女を救う六本木の話を読みたいと思うが、それは作者を尊重せぬ横暴な読者の振る舞いとなってしまう。どうしようもなく、やりきれない。

昔の作品を掘り起こして礼讃するのは、当のゴズィラさんにとって甚だ迷惑なことであるかも知れない。しかしながら『バンダナ』の、小さなふたりの無力さを否が応にも突きつけられる幕引きが、不思議な美しさを孕んで今でもぼくを苛むのであるからして、お互いさまと開き直るつもりはないのだけれども、今回採りあげさせていただいたこと、何卒お許し願いたいのである。


| パワプロ小説礼讃 | 19:06 | comments(2) | trackbacks(1) |
『三日月と幽霊』
 あおい先輩と自室で飲んでいたら「あれって、もしかしてむらさわじゃない?」と見抜かれた。
 むらさわはわたしの体に憑依している居候で、10時を過ぎるとくぼんだ白のクッションを寝床にお休みになる球体の幽霊である。なんでも大正生まれであるらしい。
 なぜにご存知? という疑問も湧かないほどに自然な言い方だったのでわたしはこくりとうなづく。あおい先輩は、クッションに嵌まったように落ち着いているむらさわに近づく。きゅっと抱きしめる。そのあと往復ビンタをお見舞いする。耳元でこう怒鳴る。
 「アンタ……無事なら無事って知らせなさいよ!!」
 まったく意味がわからない。

 「あおいちゃんキョーレツやわ。わて半死半生。あ、もう死んでるけど。なははー」
 マッコリをストローでちゅうちゅう吸いながら、むらさわ。
 「ボクがどれだけ心配したと思ってんのッ」
 缶チューハイを片手に、あおい先輩。
 「それって遠回しの愛の告白?」
 キラーンと目を光らせる霊魂。
 「むらさわ、自縛霊のくせにポジティブ過ぎ」
 早くこの酒宴が終わらないかしらん、とわたし。
 プレーオフ進出の決めた日の狂熱がようやく醒めたころにプレーオフが催された。キャットハンズはパ・リーグ2位のライオンズにみごとなまでにボロ負け。中継ぎエースの早川あおい先輩はシーズン終盤の雄姿がどこへやら、やつぎばやに痛打され、後を任されたわたしは相手の4番打者にホームランボールを献上。わたしたちだけでなく、チームのみんな夢見ごこちから現実に引き戻されたばかりで、観客並みの緊張感しかなかったのだ。
 それが今日のできごと。
 わたしたちキャットハンズはあっという間に日本シリーズ出場の権利を手放し、あおい先輩もわたしもみずからのふがいなさにビールを一気飲みし、酒におぼれて現実から逃避した。若気の至りここに極まれり、という惨憺たるありさま。
 それがまさに今さっき。
 「なんてなっさけない投球や。わてが見込んだ乙女たちとは思えん」
 師匠然としてむらさわがこぼす。そこそこにムカつく幽霊である。
 「何も言い返せません」
 弟子のように懺悔するあおい先輩。そのくせにこにこしている。むらさわと再会できたのが、よほど嬉しかったご様子である。

 むらさわに数週間前まであおい先輩の体にご厄介になっていたそうである。
 そして何でもプレーオフ進出を決めた試合の日に、先輩がダンプカーに轢かれそうになったところをむらさわが命懸けで助け、2度目の天に召された、とあおい先輩は思っていた。実のところ、ちょうど同日、むらさわは鞍替えしてわたしの体に憑依したのだった。
 ふたりの事情なんてつゆ知らず、これはタチの悪い死に神のたぐいだと思い、誰にも相談していなかった。相談しても信じてもらえるとは思えなかったし、今日のきょうまでひた隠しにしていたのだ。だけど、あおい先輩はわたしに対しても納得いかないらしい。
 「そんな『ダンナの不倫相手を目の前にした妻ー』みたいな目で見ないでください」
 「な、バカッ。ボクがなんで」
 「いや、なんかそんな感じ」
 「みずき、そんな体験あるの?」
 「あるワケないでしょ。もののたとえです」
 「わてのために争わんといてー(キラーン)」
 「黙んなさい超常現象」
 「もとはと言えばアンタがはやくボクに」
 しんしんと夜は更けていくさながら、わたしたちは因縁をつけてむらさわをべしべし叩きながら深酒をし、むらさわといえば「カミノイッキュー」と喚きつづけ、ぐたぐたの様相を呈したころにあおい先輩は同じ女子寮の自室へと戻られ、その日は解散となった。

 むらさわは、性懲りもなくわたしの布団にもぐりこんでくる以外はさほど実害のない幽霊であるので、生活に支障をきたすことはなかった。戦前の「職業野球」の思い出や、あおい先輩と暮らしていたころの話をものがたるむらさわはなかなか話上手でもあり、死んだとはいえ、さすがは大正生まれらしい見識の深さを披露することも少なくない。わたしは状況をことのほかすんなり受け入れていた。

 ソファーに横になって朝のニュースを見ていた。プレーオフではセの優勝チームである頑張パワフルズが、2位の猪狩カイザースを制して日本シリーズ出場権を得た、と報道されていた。マウンドを中心に選手たちが集まって輪になる場面が映し出される。
 「順当だったね」
 むらさわに呼びかける。短い手でぺらぺら週刊ベースボールをめくっている。
 「リーグ優勝してるチームやからねェ」
 「プレーオフ制度ってどう思う?」
 「くらいまっくすしりーず……名前が好かん」
 「そうじゃなくて」
 「んー、ええんちゃう。オモロかったら」
 オモロかったらええんちゃう。言われてみるとそのとおりかも知れないと思ってテレビに目をやる。監督の橋森重矢のインタビュー。ファンへの感謝のことばのあと、「必ず日本一になってみせます。パワフルズ第2の黄金時代の幕開けです」と高らかに宣言していた。
 「コイツ役者やなあ」
 「そやなあ」
 エセ関西弁であいづちを打ってみる。いかにも胡散臭いと思う。と、ケータイが鳴った。あおい先輩からの着信である。
 「はーい。珍しいですね、こんな朝から」
 (…………)
 「先輩?」
 (みずき、ちょっと部屋行っていい)
 声が死んでいる。
 「いいですよ。どうしたんで――」
 電話はプツッと切れてしまった。あおい先輩来るってー、とむらさわに言う間にインターフォンが鳴って、どうぞーと大きな声を出す。現れたのはキャットハンズのジャージ上下の先輩。おろした髪はボサボサ。目が据わっている。あきらかに寝不足の形相である。
 「みずき」
 少しひるむわたしとむらさわ。
 「どないしたんやあおいちゃん」
 「こ、告白された」
 「誰に」
 「小波くん」
 「小波くんって、あの小波さん?」
 呼吸もままならないように、目をつぶってぶんぶん首をたてに振るあおい先輩。
 「つーか、これ?」むらさわがテレビを指す。
 ちょうど試合後のインタビューに答えているパワフルズの小波さんが映っている。
 「きゃあッ!」
 手のひらで顔を覆い、ねじるようにしてダイナミックに後ろに反り返ったあおい先輩はそのままカーペットに突っ伏した。さすがアンダースローの投手。体の筋肉が柔らかい。
 「だめだめだめだめ。ちょっとテレビ消してー」
 消してーと懇願する先輩は、いつもに輪を欠けて冷静さを失っている。
 近くにあったむらさわの寝床であるクッションをぽかぽか殴っている。
 むらさわがテレビを消して一言。
 「これは、おおごとやねぇ」
 「そやねぇ」
 エセ関西人と化したわたし。むらさわと顔を向きあわせて目を細めた。これはオモロい、と思ったのである。

 インスタントのコーンポタージュスープを出す。あおい先輩はふうふう冷ましながら飲んでいる。ようやく落ち着いたご様子。なんだかシャーロック・ホームズの小説みたいだと思った。事件に巻き込まれた依頼者にブランデー入り紅茶とクッキーを出すホームズ役のわたし。
 「ああ、おいし」
 スープを飲み干した依頼者の、ほおに赤みがさしている。精気を取り戻したらしい。
 「昨日、寝てないんでしょ」
 「わかる?」
 「それはもうあからさまに」
 「睡眠不足はお肌に悪いんやで〜」
 むらさわがあおい先輩の背後でうろちょろする。
 「で、その告白って」
 先輩は体育座りになって、がっくりとひざに顔をうずめた。
 「んー。いや、それが」
 「いつ、どこで、なんて言われたんです?」
 歯切れの悪い先輩に対して詰問して事情聴取を進めていく。何でも、昨日の深夜、クライマックスシリーズ優勝を果たしたパワフルズの主力選手である小波選手から電話があり、どこにいるのかと聞くと、キャットハンズ女子寮の前だという。
 (女子寮といっても単なる借り上げ住宅で、駅前のワンルームマンションなのである)
 「プレーオフ優勝して、ビールかけして、幸せだなと思って……そしたらふと、あおいちゃんに会いたくなったって」
 きっとあの熱血野球バカは、恥ずかしげもなく、「自分でも不思議なんだけど」というふうな真顔をして、そんなセリフを言ったのだろうと想像された。じゃっかんイラついた。あおい先輩は耳まで真っ赤にしている。
 「で、小波さんは」
 「突然ゴメンって言って」
 「ふむ」
 「なんだか伝えたいと思ったんだ。オレは、あおいちゃんのことが……キャーッ」
 発作症状のように、むらさわクッションに顔をうずめて、足をさわがしくする。
 「こらァあかん」
 「『恋の病』だね」
 「まだシーズンオフでよかったわ」
 ほっこりした表情のむらさわ。わたしも、同じような顔をしていただろう。
 「でー、けっきょく先輩はなんて返事したんです」
 バタ足を繰り返す先輩の足首を持ちながら聞く。
 「へんじ!?」
 早川あおい女史は時折ヒジョーシキな一面を見せる。告白⇒返事という関係性を理解できず、まるっきり虚をつかれた顔。なんでやねん、とわたしはこころの中でつっこんだ。
 「そう、返事」
 「してない」
 「いったん保留にしたんですね」
 「ううん」
 左右に首をふる。長くきれいな髪が、風にそよぐ草原のようである。
 「じゃあ、なんて」
 「みずき、ボクね。混乱しててほとんど覚えてないんだけど」
 「いいわけ無用」
 「たぶん『小波くん、なに言ってるの?』って聞き返して」
 なんだか悪い予感がする。
 「もう一回『だからオレはあおいちゃんのことが……』なんていうもんだから」
 「いうもんだから?」
 「わけもわからず恥ずかしくなって、駈け出してしまいました」
 この人はなんて女子力が低いのだろう、と思った。いや、むしろ高いのかしらん。
 「……小波さん、誤解すると思いますよ」
 「せやせや」むらさわも同意する。
 「ゴカイ?」
 幼稚園児のようにおうむ返しをするあおい先輩。
 「先輩にフラれたって」
 「なッ、なんでボクが小波くんをフラないといけないのよ!」
 「だーかーらー。そう受け取られても仕方がないってこと」
 むずかしい、むずかしすぎる、とつぶやきながらあおい先輩はうつ伏せにくずれる。
 「ともかく早めに誤解をとくのが肝心やで〜」
 その先輩の背中でバウンドしながらむらさわ。さすが年の功、いいこと言うと思った。

 まずは小波さんに電話して謝ること。正直に、混乱して恥ずかしくなって逃げてしまったということ、そして昨日寝てないんだから少し横になること――などと、半泣きで瞳をうるうるさせたあおい先輩をみっちり指導して、家に帰らせた。
 一息つこうとして、こぶ茶を飲むためにお湯を沸かす。
 「むらさわー、アンタもなんか飲む?」
 「ここあがええなァ」
 沸騰したお湯でココアパウダーを溶かし、牛乳を入れてかき混ぜる。むらさわは幽霊のくせに猫舌だ。なんでも「体温低いから」らしい。幽霊ってそんなもんかな、と思う。
 こぶ茶をすすりながら、テレビをつけなおす。朝の情報バラエティ番組で、冬のオシャレ女の子コーデの特集をしていた。グレーのグラデーションのニットポンチョが可愛い。
 むらさわはマグカップを傾けながらココアを飲んでいる。
 「むらさわ」
 「はいな」
 「先輩、大丈夫だと思う?」
 「あおいちゃん、けっこう浮世離れしとるからァ」
 「そうそう。危なっかしいんだよね」
 「取り憑いてるころにびっくりしたもんね」
 レトルトのカレーをパックから出して、沸騰したお湯の中に注いだこと。本州の最西端は「山口県」ではなく「島根県」(いわく、島の根だから島根でしょ)だと信じて譲らないこと。携帯電話の赤外線通信のやり方をちょっと前まで知らなかったことなど、浮世離れエピソードを披露するむらさわ。
 「いや、アンタが赤外線通信を知ってることもおかしい」
 「気にしーな」
 「なにごともなけりゃいいんだけどネ」
 「しあわせになったらええな」
 ココアをなめるように飲む。しあわせっーてなんだぁっけなんだぁっけーと、お醤油のCM曲を歌っている。アンタが世慣れすぎなんだよッという言葉は心にとどめておいた。
 日が落ちてもあおい先輩からは反応がないので、きっとうまくいったのだと早合点してわたしは夕食の支度をしていた。手羽先と大根の炊いたもの(玉子付き)と、作り置きしていたニシンのマリネ。冷蔵しておけばどちらも3日間くらい持つ。一人暮らしの生活にしては、まだ料理をしているほうだと思う。
 みずきちゃーん、ケータイ鳴ってるでーとむらさわ。リビングに行って取ってみれば<早川あおい>とある。ケータイを開いて通話ボタンを押す。
 「先輩?」
 (みずきぃ)
 第一声。情けない響きである。
 「どうしたんですか」
 (ご指導お願いします)
 「……うまく返事できなかったんですね」
 (かいつまんでいうと)
 「ワイン持ってきたら夕食もご馳走しますけど」
 (あ、うちにナパ・ヴァレーある)
 「赤?」
 (白)
 「持ってきてください」
 ガチャっとドアの開く音。乙女2人、幽霊1人の酒宴が決まった。

 みずき料理上手―、などと、似合わないおべっかを使うあおい先輩は、明日の晩ご飯分までたいらげてしまわれた。酒の肴らしいものもなかったので、クラッカーにサワークリームを塗って出す。いつから我が家にワインオープナーが常備されるようになったのだろう。あおい先輩がなれた手つきでコルクを抜く。むらさわにはマッコリを与えた。
 「おいしいですね」
 「けっこう高いヤツだから」
 「洋酒なんて嗜みよって、近ごろのうら若き乙女は」
 「あ、むらさわ。価値観古い」
 「しゃーないやん大正生まれなんやから」
 わたしたちはワインを口に含んだ。先輩は落ち着きなくクラッカーを咀嚼している。
 「あの、わたしからは何も聞きませんよ」
 「つ、冷たい」
 「甘えないでください」
 「小波くんに電話したよー」
 しな垂れるあおい先輩。小波さんに電話して謝り、正直に混乱して恥ずかしくなって逃げてしまったということ伝えるまではよかったのであるが、返事をうながされたとき、あおい先輩は返答に窮した。
 「だってさ。信じられないよ。ボクみたいな男女つかまえてさ」
 「はあ」
 だって可愛げもないしかといってクールビューティってわけでもないし、体型もスレンダーっていうよりは寸胴だし、料理だってみずきみたいに上手くないし、これでもボク練習してるんだよ? あおい先輩は自虐ぎみに言った。不愉快なほどにいじけている。
 「それに、育ちだって悪いしね」
 「先輩。なんなんすか」
 つい、ことばが乱暴になる。野球となればあれほど強気で、後輩のわたしにも手厳しいというのに、こと恋愛となれば見るも無残な体たらく。こんな情けない姿をはばからずに見せるあおい先輩に驚くとともに、果ては「育ち云々」などと持ちだして酒をあおる姿に、あなたを尊敬しているわたしの心情も察して、幻滅させないで、と、みずからを哀れむ気持ちがなくはなかった。
 「みずき、なんで怒るの?」
 不安そうな表情のあおい先輩にまたむっとくる。
 「何でもないですッ」
 「うそ。怒ってるよゼッタイ」
 「怒ってないですって」
 グラスのナパ・ヴァレーをくいと飲んで手酌する。いたたまれぬ空気が流れる。無言でワイングラスに口をつける。そのとき、むらさわがわたしたちの頭の上をぽうんぽうんと弾んだので、グラスの端に歯をぶつけて痛い。
 「むらさわ痛いよ」
 「よろこびの 極となりし かなしみの 極に二人 また酔ひにける」
 「なにそれ」
 「短歌や。意味がわかる? 奥さんがこのうた好きやったんやわァ」
 「え」
 「な」
 わたしもあおい先輩も1文字しか発声できなくなる。
 「なにそのリアクション。わて享年27才やで」
 「既婚者?」
 「おう、子どもおるし」
 「ええー」
 「まじでェ?」
 まるい体をふくらませて得意げな御霊。
 ほぼ同時、わたしもあおい先輩はさきほど飲みそこねたワインをのどにかたむけた。

 それから、深酒になった。男を交えて飲むと、どうもそうなってしまう。むらさわと奥さんとの馴れ初めを面白がって聞き出し、きゃーとか、むらさわ意外に情熱的ーだなんて茶化した。白ワインのボトルがすっからかんになると、文字通りとっておきのわたしの赤ワインに手がつけられた。もうどうにでもなれ、と、やけくそ気味になる。
 「今でも奥さんに会いたいと思わないの?」
 ガクンと落ちる寸前のハイテンションなあおい先輩が聞く。
 「んー。まだ生きてるけど、とくに」
 「なんでー」
 「わてこんな身分ですし」
 「自縛霊だからって」
 「ええねん。愛してれば、会えなくても」
 「わ、まだ奥さんのこと大好きなんだ」
 「だいすき。だいすきやでー」
 ゆらゆらとただよい、ベランダに出たむらさわ。星に想いをたくすように奥さんの名前を呼ぶ。その姿を見てわたしたちは照れくさくなって笑う。しとしきり笑ったあとあおい先輩は鼻を赤くしてぐずぐずさせている。
 「ど、どうしたんです」
 「いやーなんかさー」
 見ると目も真っ赤である。ティシューをひとひら、ちんと鼻をかんだ。
 「ステキだなって思ったんだ。幽霊になっても、だいすきだなんて」
 「はあ」
 どうにも反応しづらかったが、恋するあおい先輩からすると大正生まれの幽霊が奥さんを愛し続けていることはステキであるらしい。かつて『鉄のサブマリン』と呼ばれたあおい女史は最近、乙女がかってきている。
 「みずきい」
 後ろから覆いかぶさるようにあおい先輩。息が酒くさくて甘い。
 「ボク、小波くんが好きい」
 「ノロケは犬にでも食わしてください」
 「ひどい」
 「はいはい。どうしてまた唐突に」
 「ボク、むらさわ見て思ったんだ」
 くびをくるーりと曲げてあおい先輩の顔をのぞく。その瞳は澄んでいて一点を見つめていた。
 「臆病でいるより、幻滅されるって怖がってるより、いっそ信じてみようって」
 「はあ」
 信じてみよう――それは小波さんのことだろうか。それとも自分自身のことなのだろうか。
 わたしの疑問も知らん顔で、ほとんどまぶたを閉じたあおい先輩はわたしのからだをゆりかごのように前後に揺らす。ここちよく酔いがまわっていく。あおい先輩を背負ったまま、わたしはワイングラスをかたむけた。
 しあわせっーてなんだぁっけなんだぁっけー。むらさわの歌っていたCM曲が、無意識に口からついて出た。
 見やればベランダの欄干には幽霊ひとつ。三日月が、ボートのように空に浮かんでいる。


| パワプロSS | 23:58 | comments(2) | trackbacks(7) |
『カーネーション』
 街が眠りからさめる前に、猪狩進はベッドから抜け出した。それは進にとって大切なひとときだった。
 カーテンレールを開くと原色の緑の葉が5月の陽にあざやかで、進はまぶしくて眼をほそめる。その向こうに誰も乗っていないえんじ色の回送電車が過ぎてゆく。「時間がこんなにもはっきりと見える」。静かな時間のたゆたいは進を切なくした。
 コーヒーを温め、軽い食事を摂った。窓から差しこむ透き通った光がじょじょに温みを帯びてくる。かつて附属物であった自分ならば、この空気の中にどんな姿を晒しただろう。身体はカタチを失くして、輪郭を縁取る線だけが残り、進は笑いながら自己の存在を消失する。……思い描いた空想に進は満足した。
 桜の芳香が消え、5月の風は緑の匂いが強くなってくる。窓のそと、流れゆく雲の真下、広葉樹の葉影、ビルの谷間の黒い空間、電柱の長いながい影の色はしだいに濃くなっていく。
進は飽かずにそれらの景色を眺めていた。

 おだやかな春の日だった。進は母の日のプレゼントを買いに行くついでに、住んでいる街をぶらりと歩いた。花屋のシャッターが上がるまでにはまだ時間があった。薄手の長い袖のシャツが蒼い風に揺れて、少し肌さむかった。こんな日は、いやでも母の追想が頭をかけめぐった。
 (まるで妹のような人だったな)
 進は妹も弟も持っていなかったが、きっと、妹がいれば母のようだったろうと思っていた。こどものころからずっと。母にすがりつけば、母は父にすがりついた。茂さん、茂さん、どうしたらいいのでしょう。
 何も判断しようとせず、その代わりに主張もしなかった。美しい絵本や音楽を愛した。趣味の手芸は、社長夫人らしからぬつましいものだった。そんな生活を送っていたから母はいつまでも若く、20代前半の女性のような初々しさと成熟しない危うさを保った。

 通りがかった公園に、噴水が飛沫の弧線をかたちづくった。一瞬、白い光がひとつひとつを輝かした。水は力尽きて降りてゆく。水面をみだしてやがて一体になる。しばらくしてまた噴水が動く。静かにそれは繰り返された。
 母はこういうものが好きだったかしら。ふと考えてみたが、進にはわからなかった。

 いっそ女だったら母さんは自分を愛してくれただろうか。そんなことを思った日があった。家々の灯りがじょじょに消えていく夜半、となりの部屋で母の眠る窓辺で。またはフェンス越しに乙女らが歩む、灼熱のグラウンドの真ん中で。
 等間隔で並木の植えられた公園沿いの道を歩く。隣接した市民球場の白い外壁に陽があたって、いたるところに細かなひび割れを露呈していた。風化の作用がもたらす、老人にも似た球場のたたずまいを進は美しいと思った。

 才能に生まれながらの格差があるように、愛情の注がれる量にも差はあると、進はずっと信じていた。母は兄を愛していた。兄の妊娠早期に母は風疹にかかった。統計上35%の確率で先天性の障害を負うかもしれぬ子どもの出産に、両家の家族ははげしく反対した。それはただ専一に、子どもの親となるふたりの将来味わう苦労を見越してのことだったのだろう。
 母は産む決心を一度も揺るがせなかった。夫の茂がどんなに説得しようと、両親が泣きながらに訴えても「誰が何と言おうとわたしはこの子を産む。みんなが望まないとしてもわたしだけはこの子を望んで産むの。そのために周りの人がわたしを見捨てたとしても、ひとりで育ててみせるから」と宣言したという。
 あの穏やかな母からは想像できない逸話を聞いたのは、進が5歳にも満たないころだった。だから進は思った。産まれる前から、母がすべてを見捨て、また見捨てられても愛される権利を兄が有しているのだと。
 ときどき、兄がほんとうに障害を負って産まれてきた場合のことを考える。たとえば光を持たずに誕生した場合のことを考える。白杖を持って危うげな足取りで道を歩む兄を。兄がそんな不便を味わうことがなくて良かったと思う。
 ただ、その空想の中に、猪狩進の瞳はどこにもない。母は結局、実家の経済的支援を受けてではありながら、兄とふたりの生活を送る。身をやつしてはたらき、年相応の疲れと年輪をその小さな顔に刻んで、そしていつも眼の見えない兄と貧しい夕餉をかこむ。兄は学校での自慢話を母に伝え、母は内心、あなたを産んでほんとうに良かったと思いながら褒める。そこに猪狩進の姿はない。
 35%の確率で自分は見捨てられる運命にあったのだと、進は思うたびにぞっとした。

 なんて退屈だろう。そしてなんて穏やかで優しいのだろう、この光の中に溶けてゆきたいと進は願う。陽が昇って街を温めるころ、ひとびとは決まったスーツとYシャツ、または制服に身を包んで駅へと急ぐ。景色の色彩と呼吸を殺して、彼らはどこまで歩くだろう。進にはそれがまるで無関係に思えた。陽の光がただ優しかった。
 母のように?
 定型的な比喩が思い浮かんで、進は苦笑するしかなかった。

 ダイヤモンドの指輪を愛でるのは、ダイヤモンドが美しく高価だからだ。進はプラチナのリングでもいいと思っていた。あなたの指が通るのであれば。
 進は手のかからない子だった。
 兄も進も母を大切にした。ただ、無鉄砲でわがまま勝手な兄は母にとって親しみやすく、進には遠慮をしていたように思う。
 「進がいるからね、守がムチャしても大丈夫。お母さんは安心していられるわ」
 進のことをねぎらって母が言った。それはまさに進の願った言葉だった。兄の衛星として生きることで母の眼に映っていたかったから。なのに、血の気が引いていくのがわかるほどにかなしかった。天体の周囲をめぐる星屑。進は自分を揶揄した。
 「僕が大丈夫じゃなかったらお母さんはどうするんです?」そんなことは聞くはずもなかった。聞きわけのいい、手のかからない子を演じるのにはもはや慣れてしまっていた。

 風は涼しくも温かくもなく、進は永遠の凪に泳いでいるように感じる。空を見あげると二車線の国道の向こうに、雲がうずたかく湧きあがっている。かつて進も、こんな晴れ間に未来を夢見たことがあった。遥かに茫漠とした雲間の先、悩みひとつない輝かしい未来を。
 そして夢見たころの背丈に達した今、かつての空想とは自分の姿はいくらか違ってしまっていた。苦い現実が進の前に立ちふさがり、かなしみよりも後悔よりもむしろこっけいさを感じた。
 なんだろう――いったい僕は何かをし忘れたのだろうか。
 たぐり寄せようとした記憶はすでに高い空へ舞いあがり、進の手には届かないところへと行き着いてしまっていた。振りかえって過去を懐かしむ、そんな感傷を当たり前のように排除してしまえる自分がいた。進は諦めに似たすがすがしさに満足した。
 また風が吹いて、進の髪をなびかせる。そろそろ花屋は開いたろうか。街へ足を向けた。

 街はささやかに賑わっている。いつも目におさまる駅前の花屋。まだカーネーションが残っているといいな。進は子どものように希(こいねが)う。進がかつてその愛情を欲し、つぎに軽蔑の眼で冷ややかに眺めた妹のような人。今日は正直な気持ちであなたに感謝のこころを贈ろう。
 事故は2年も前のことだったが、昨日のようにも、時間の概念のない夢の世界のようにも思えた。雨の降りそそぐ日、白と黒の横断歩道で転んだ進に、憎しみ深い巨大な平手打ちのようにしてダンプカーは衝突し、そこここの肉を割き、また全身の骨を砕いた。
 血みどろの自分を進は見なかった。見たのは母その人だけだった。白と黒に赤が彩られる中、雨の矢からかばうように母は進を抱いて包んだという。
 しばらくして意識を取り戻した病院は蒼白く、清潔な死の匂いが光にさらさらと流れていた。その中で看護婦たちの話を聞いた。猪狩進という病人の、母の話を。夜になれば病床に寄り添って眠る若い母親のこと。事故の日、進はアスファルトにへたばった進は母に抱かれた瞬間に乞うたという。
 「母さん。ずっと、さみしかった。今日はいっしょに寝よう、子守唄を聞かせてよ」
 附属物ではいられなかった自分が血の海の中で晒されたことを進は知った。羞恥よりもいじらしさを感じた。取り残された孤児のような自分の影。母に相対したくてあがいていた自分に初めて触れた気がしたのだった。
 事故の怪我から快復した進は、実家から距離を置いて一人暮らしをはじめた。兄から自分を引き剥がし、母からも離れてひとりで生きる生活。おだやかな時間の流れは進の心を平穏にした。雨の優しさを、夕日のわびしさをはじめて知った気がした。そして花の色の美しさを。

 進はカーネーションを買いに花屋に入った。母の日にそれはいくらでもあった。店員を呼んでアレンジを頼む。数色のカーネーションを選び、郷愁ににじむ、かつての家へと贈られるように手配した。店員は念のためと前置きして花言葉を教えてくれた。進はうなずき、そして選んだ花はそのままに店を後にした。

 「軽蔑」の黄色を一輪、そして「あわれみ」と「熱烈な愛情」の赤を花束にして。


| パワプロSS | 00:06 | comments(6) | trackbacks(2) |
『折り返し運転』

 ふたりそろって寝過ごし、最寄りの駅を降り過ごす。見なれないプラットフォームを眠けまなこで認識して、あおい先輩はひじょうに当惑したようすだった。頭をふったひょうしにおさげがわたしの頭にあたる。ワインの残り香と、二日酔いの先輩の匂いにむせる。

 どこ、ここ。
 S××駅、です。
 あー、ふたつ先?
 みっつ。

 みっつ、みっつー。二日酔い、かつ寝ぼけた先輩はつぶやき、はんたいの電車に千鳥足で乗りかえる。私は介抱する人間の余裕を見せながらあとにつづくけれど、おもいのほか自分のあしどりもおぼつかない。電車に乗って、席にすわって、わたしは先輩に肩を貸す。

 寝ちゃ、だめですよ。
 
 保護者ぶったのがお気に召さなかったらしく、先輩は語気強く「わかってるよッ。」というのだけれど、すぐにわたしの左腕にすがりついて寝入ってしまう。

 ボジョレー・ヌーボー解禁と先輩の婚約にかこつけて、チームメイト数人と部屋飲み。しこたま酔った。とくに先輩は午前3時半まで、周囲にペットボトルのワインを注ぎ足しつぎたし、わたしは暗然とした気持ちにおそわれた。

 だけど、4時をまわったところで、電池が切れたように先輩は頭をたれてしまった。いつものパターンだ。いつもの、一番はた迷惑なパターン。家主の他はみんな、ここぞとばかりに蜘蛛の子をちらす。

 こうなればわたしは昼までねいる気で、家主の男の了承を得てしばらくゆっくりしていたら、ふいに先輩が覚醒を起こされ、男女七才にして同衾せず、と言いたかったのだろうとかろうじて理解できる不明瞭なことばを発せられ、そのまま家を飛び出してしまった。そうして、始発電車に乗り込んで、今ここに至るわけ。

 ドアから冷たい風がしみるようにはいりこむ。ほのぐらい世界が、じょじょにしらんで明るくなる。日の出る時刻を境にして、毎日世界は新しい日をむかえるのだ、と思う。日々は世界が暗くなり明るくなるたび、新しく生まれかわる。

 さむがりな先輩はみずからのピンクのダウンジャケットをぎゅっと抱きとめる。ずっとやわらかくなった先輩の表情に、わたしははっときづいて切なくなる。先輩のプロ野球選手としてのはりつめておごそかな顔は、すっとおちるようにどこかに流れていったのだ、ということをいまはじめて知る。

 発車の合図の警笛がなって、電車内の気圧が高くなるようにして、ドアが閉まる。こうして先輩と帰えることももはやなくなるだろう。そんな感傷をわたしが抱えていることもしらないで、先輩はやすらかな寝顔でよりかかる。規則的な息を吐く音。からだの上下のうごき。

 いちばん近いはずの存在をおさなくしてなくした先輩。ああ、だからなのだろうか、あなたは猫のように、人のこころに不用意にはいりこんで、強く足跡をのこしていることをわかっていらっしゃらない。

 広告が並んだ防音壁を抜けて、向こう側の窓に空をうつされる。午前5:00。早朝の空は桃色に染まって、あまりに晴れすぎて、どこまでも透きとおる果てのない情景。同じこころを求めようと先輩を起こしそうになる。それは、あのときと同じ、一方通行のわたしの感性。

 先輩、永遠を感じませんか。

 夕暮れのグラウンドでふたりぼっちでボールを片づけていた日、わたしは先輩に告白をした。もう世界にわたしたちだけしかいなくて、永遠のひととき、まるで遺産となる絵画のように永くながく、いつまでもこうしているような心持ちを感じて、先輩も共有していないだろうかと、そうであってほしいと願った。

 でも、先輩は、うん、とだけ応えた。そんな気持ちになったことはあるよ、ふたりのこころが空に投げ出されるみたいに、永遠っていたずらに来るんだ。そのとき先輩がいたずらな永遠の一瞬を感じていないことは明らかだった。そして、先輩に永遠をあたえるひとにいるのだと、そのときはじめて知らされた。

 あおい先輩は小さなあたまをわたしの肩にあずけて、もし知らせなければ、また電車を降り過ごすことだろう。わたしは最寄りの駅で先輩をのこして降りることも考える。でも結局、それもできなくて、先輩がちゃんとおきるまでのあいだ、わたしはこの無為な折り返し運転を繰り返すんだ。


| パワプロSS | 16:53 | comments(4) | - |
表紙に頬を当てながら……
 パワプロ小説礼讃

『夜更かししたい夜に』  ――lnanさん


 FourRamiさんのサイト『海の見える高台の家』で開催されていた小説コンクール、「一筆夢想」。1ヵ月の期間に投稿された作品に対して、設置された投票所での投票数で最優秀賞を決めるこの催しには、パワプロの二次創作だけに限定されない様々な作品が集まったものだ。たんに自分の作品を公表するための受け皿としてだけではなく、ジャンルも違えば作者の年齢も違うほかの方の作品を読めた貴重な場として、いまでも愛着を感じざるをえない。

 そうした自由参加型のコンクール、コンテストは、事前の検閲ないクリーンな場であるからこそ、作品のよしあし、巧拙にかなり幅が出てき、ときに何の前触れもなく、驚くほどの完成度、秀麗な文章と、面白いコンセプトを持った作品を投稿される。ぼくにとって、もっとも興味深く、あこがれの人ですらあったのが、合計で4作の短編を投稿されたlnanさんだった。

彼女はあまり気が進まないふうでいたが、おれが想像する不安材料を勝手に並べては、あれやこれやと解決策をしつこく熱弁しているうちに、最終的には「本当にいいのね?」と念を押しながら承諾した。 (『ダムに沈む家、沈まない田舎』より)

 はじめてlnanさんが投稿された『ダムに沈む家、沈まない田舎』の一文。盆に妻の実家を訪れようと提案する主人公の夫に対しなぜか渋る妻、それを夫が説得する場面。何の変哲もない文章かもしれないけれども、リズムと、語彙の豊富さ、そしてその使い方がぴったりと板についている感じが心地よく、はっとさせられた。

 オンライン上で、一読して「書き慣れているな」と思う作品に出合うのは、なかなか稀だ。「書き慣れている」とは、おうおうにして「読みなれている」ということである。lnanさんの登場にぼくは歓喜した。彼の腕前をわかるのはぼくしかいまい、というふうな、自分の批評眼へのおごりと通人ぶった優越感を持ったものだ。

 その次に投稿された『真中島の死闘』は、野球ひいてはスポーツを語る上で陥りやすい、台本小説化の要求を見透かしてありのままをメタ的に表現してみせた実験的作品だと思う。(拙評「パラドックス?」参照) 3作目の『キョウザクラ』では、桜木の真下、春の夜のボーイミーツガールを美しく描いている。

 まるで父親の持つ腕時計の醸し出す高級な雰囲気や、革の名刺入れの匂い、電子手帳の精巧さに子どもが興味を持つように、ぼくはlnanさんの作品に何度も目を通した。きっと自分よりずっと年上の人なのだろうと思おうとした。若さをアドバンテージとして考えなければ嫉妬心を持ってしまいそうなくらい、あの人の文章はぼくの理想に近かったからだ。心象を克明に観察し、切り開いて骨肉を晒し、成分を解析してみせる、あの近代純文学の肌触りがlnanさんの作品にはあって、しかもそれは、ぼくの書いたSSや短編のどれよりも淀みなく巧みだった。

 『夜更かししたい夜に』は、lnanさん唯一の二次創作で、パワポケ1の進藤明日香とのイベントを題材にしたもの。所属する野球部の甲子園出場を決めた小波は、甲子園に出立する前日、入院している病弱な恋人・明日香に会いに行く。面会時間を過ぎても、「ねえ、もう少しだけ。もう少しだけでいいから、まだ帰らないでくれない?」とせがむ明日香の頼みを聞き入れ、明日香の将来の夢について話しをする。明日香の夢は絵本作家だという。小波は恋人を励し、お墨付きの言葉を与える。
「明日香ならなれるよ。おれと違って頭いいから」
「ホントに? でも、ちゃんとなれるかしら……」
「なれるさ。きっとなれる。書き上げたらおれにも見せてくれよな」
「ありがとう。きっと、一番に小波君に見せるわ」
それだけ話すと、明日香はひどく疲れたふうな息を漏らした。再び周囲は真っ暗な沈黙に覆われた。大勢の人がすぐ近くで過ごしているはずだというのに、ただ、ひっそりと小波と明日香の周りにだけ時間が過ぎていっているようであった。
 小波の高校は甲子園に出場し、前評判を覆して決勝まで駒を進める。そして決勝戦、ピッチャーである小波の奮闘もあり、9回裏まで4-2でリードしていた。しかし、1点を返され、なおも満塁のピンチに陥ったとき、相手に投球フォームのクセを読まれていると感じた仲間のアドバイスもあり、昔の投球フォームに変えてみる土壇場での大ばくちを打つ。

 小波は父親や弟、そして明日香と昔の野球の絡む記憶を想起する。ふと、届くはずのない明日香の声を聞いた気持ちになる。小波の最後の投球はイメージと寸分の狂いない球筋で、バッターをダブルプレーに打ち取り悲願の全国制覇を達成する。
 そして、帰りの新幹線で小波とチームメイトに明日香の死が伝えられる。「携帯電話を取り出すと、おろおろと当てもなくボタンを触り、それから、しばらく頭を抱えて何事かしきりに底なし沼の底から漏れるような声でつぶやき、最終的に両手で顔を覆って動かなくなった。」という小波の様子は、実に痛切である。

 自宅に帰った小波は父とともに明日香の家に向かう。明日香の母親に迎えられ、棺に納まった明日香と対面したときの小波のたたずまいの叙述は、克明で精緻を究める。心理に様々な角度からメスを入れ、じりじりと真実へにじり寄っていく書き方は、語り手に冷静で残酷な印象を与えると同時に、小波のかなしみをいや増す効果を与えている。
小波は自分の瞳が潤み始めたことを気づくと、歯を食いしばり、拳を握り締めて涙をこらえようとした。我が子に先立たれた明日香の両親の手前、ぼろぼろと涙をこぼすことが僭越であるように思えた。あるいは、明日香が不憫であると思うことがおこがましいことであるようにも思えたし、明日香に死なれた自分が悲しいのではないかというひねくれた考えに意地を張らねばならぬようにも思えた。また、感情をあらわにすることで、自分と明日香だけが秘密裏に共有していた思い出のたぐいを暴露してしまい、第三者の面前で陳腐化されてしまうのではないかと恐れた。
 明日香との別れとなった葬儀から数日後、小波は明日香の母親から、学校の授業に出られない明日香のために貸していた自分のノートをお礼とともに手渡される。ノートをめくると、未記入の部分に紙が挟まっていて、自分の筆跡ではない文字で、感謝の言葉がつづられていた。そして明日香の感情を追うように他のノートに目を通したとき、「妙に新しい」ノートを見つける。そこには明日香の創作の跡である文字やイラストがあり、数ページ空いて、『夜更かししたい夜に』というタイトルの短い物語が残されていた。
内容は、男の子か女の子かはっきりしない外見で描かれた子供が、少し遅い時間から始まるテレビ番組を見るために起きていようと、あの手この手で奮闘するといったものであった。子供は時々親に起こしてもらったり、お茶を飲んだりしながらなんとか番組を見ようとするのだが、結局最後には眠ってしまい、両親に寝床まで運ばれるというところで物語は終わっていた。
 饒舌な作者であれば、この短い物語から明日香のいじらしい感情を1,000文字を費やして書くだろう。しかし、lnanさんはそうしなかった。後には、ただ「小波はノートにこもっていた明日香のぬくもりを感じようと、表紙に頬を当てながら身を絞られるように涙を流した。」と、突き放した描写だけがある。
 読者のとまどいはここから始まる。母親の手から急に引き離され、泣きながら帰り道を探そうとする寄る辺ない幼児のように、どうにか感情の落としどころを見つけようと努める。『夜更かししたい夜に』という作中作は、タイトルであるとともに悲恋を収斂させる形象となっている。

 ともかく、ぼくの下手な要約では誤解を招く危険性もあるし、解釈を狭めてしまうかも知れないので、小説投稿掲示板のログに残る原文を読んでいただきたいと思う。(というのは、この「パワプロ小説礼讃」の第一弾で紹介した荻原さんの『Sleeping in the Flower』のあらすじで、最後の部分がぼくの誤読だった反省からです。す、すいませんでした!)

 自由参加のコンクールでは、各々の作者さんの交流に必ずしも結び付かず、けっきょくlnanさんの人となりは知らずじまいである。この「パワプロ小説礼讃」のため、久々にlnanさんの4作品をすべて読み返して、改めて感動すると同時に、なぜFourRamiさんの「一筆夢想」に投稿されたのか、どのような小説家を愛読してらしたのか、と、今となっては何となくそんなことに興味が走ってしまう。

| パワプロ小説礼讃 | 00:25 | comments(0) | - |
『有終』
  

 球場の照明灯の下、外野スタンドには観客が鈴なりに溢れている。隣り合ってプラカードを持つ若い女の子の姿。
 〈頑張パワフルズ〉 〈優勝おめでとう!〉
 きっと、彼女たちが生まれた年以来の、14年ぶりのシーズン優勝の瞬間に、気が早いのは彼女らファンだけではなく、何か球場全体が浮足立っていた。
 シゲ、君は今日の日をどう感じていますか? 古葉良己はファーストからベンチを眺める。ベンチの前で腕組みをして仁王立ちしているのは橋森重矢監督。ウィンドブレーカーの脇の下に腕を差し入れて、つい弛緩する心を厳しく統制している様子だ。
 (いつのまに、そんな風格を漂わせるようになったのだ。伝言ゲームのように膨らみながら降りてくる責任と睨みあう者だけが持つ、煤けた哀愁を。まるで、企業の管理職じゃないか)
 3日前、自分を呼び出して話をしたときも同じ表情だった。古葉は内心苦笑しながら、セカンドにゴロを放る。ボールを受けて次はショートの小波へ。すっかり馴染んだ、と思う。ショートに自分がいないことも、ファーストから内野を見回すことも。
 小波がサードの福家に球を転送する。キャッチャーから「ボールバック」の掛け声、そして福家からの送球。古葉良己はボールボーイに白球を投げ渡す。バッテリーの投球練習もすんで、対猪狩カイザース22回戦、7回表が始める。
 打席に3番の友沢亮が入るしばしの間、古葉はパワフルズのナインを見回す。先発投手の館西、サードに福家、ショートには小波、レフトは矢部。みな、パワフルズの黄金時代に野球を始め、暗黒時代とともに成長してきた。頑張パワフルズにこれだけの人財が集まったことも、彼らと同じグラウンドに立っている自分も、思えば不思議なものだ。

 古葉はすでに41歳になって、ベテランと呼ばれるようになってから長く経つ。黄金期の戦友であった橋森はパワフルズの監督に就任して4年が過ぎた。守備走塁コーチの横飛吉は古葉から4年も後輩だ。そして、相手チームの猪狩カイザースの監督は、パワフルズの初代エースとして君臨した神下怜斗。
 まだ、自分だけがグラウンドに立っている。
 刻一刻と変化する試合の流れを自軍に呼び寄せるように戦っている。誇らしくもあり、また後ろめたくもある。この頑張市民球場のスタンドのどこかに、妻と、息子の古葉直が座っているだろう。現役に恋々としている父に、直はいつか癇癪まじりに訴えた。家のソファーに寝転んで、母親におやつをねだる直を叱ったときだった。
 「三振息子ってどういう意味かわかる、父さん。ぼく、そう呼ばれてるんだよ」
 「誰がそんなこと言っているんだ」
 「何、怒ってるんだよ。誰がとか関係ないだろ。全部父さんのせいなんだから」
 羞恥心に耐えかねて、顔を真っ赤にして直は泣いた。泣きながら自分を睨んできた。憎しみの膜が張られたその眼差しに射抜かれ、古葉は改めてプロ野球選手であることの恐ろしさを知った。  
 「みんな言ってるよ。父さんはバンセツを汚したって!」
 それだけ吐き捨てて、息子は階段を駆け上がり、自室に閉じこもった。妻が息子を追って、父さんに謝りなさい、と叫んだ。息子の言葉と、息子に謝罪を要求する妻のおびえた表情が、古葉に事実を受け止めさせた。――自分はもう、重宝されるベテランではなく、役立たずのロートルになり果てたのだ。
 それでも、古葉には誓いがあった。次代のパワフルズを担う選手である、小波が勝ち取っているショートのポジション。ピッチャーと同様にもっとも先天的な才能を要求され、自由で気高く、傲慢さを許容し得る稀有な地位であるその座を、かつて争った幾人もの選手の面影が脳裏をよぎるたび、余力を残して美しく引退することなど自分はしまい、と心に刻み続けてきた。
 ヒト・モノ・カネ。組織を形成する三大経営資源。プロ野球界ほど、ヒトが注目され、同時に軽視される世界も珍しかろうと思う。
 盗塁王に輝きながら、「スタンドプレーが多い」というオーナーの発言に反発して、盗塁への情熱を失った選手がいた。出自に対するフロントの無神経な一言によって、他球団に移籍を決意した者もいた。ある年、大いに成長躍進したが、シーズン終盤に故障して来期が絶望的なために、球団から現状維持の年俸を提示されて激怒した若手選手もいた。
 フロントと現場の認識はいつまでも埋まらない。
 「『上』は数字だけで人間を切っていく。
 まるで女がわざと伸ばした爪を気まぐれで切るようにね。
 パチン、パチン。サヨナラ。切られたあとはごみ箱行きさ」
 球界を去った仲間が、餞別として飲みに行ったときに言い放った言葉を、その悔しさの滲む響きとともに、古葉はいつまでも覚えていた。


 

 ふいに、球場自体からキノコ雲に似た呻き声が球場から湧き上がる。猪狩カイザースのオリバー・ドリトンのソロホームランは高いアーチを描いて左中間スタンドに飛び込んだ。
一塁上、古葉の目の前を通るとき、パワフルズベンチを指差して「コレガアメリカダ!」と叫んだ。意味はよくわからない。本拠地優勝は是が非でも阻止したいというプライドがアメリカ流なのだろうか、と古葉はそんなことを無理やりに考えた。
 スコアは2対1でパワフルズ1点ビハインド。
 橋森監督の表情をうかがう。館西を続投させるつもりらしい。ただ7回裏の代打を想定して、継投の準備を進めている。続投の判断に対するファンの歓声。今期13の勝ち星を積み上げている投手への喝采でもある。
 館西はバッターに低めの変化球を打たせ、セカンドゴロ。ベースに入って送球を受ける。次に平凡な外野フライを打たせて、エースらしい気迫を見せた。一流のピッチャーの条件は点を取られたあとの切り替えだ。古葉は館西の成長ぶりに感心する。ベンチに戻った館西と橋森監督がタッチを交わす。古葉とはわざと目を合わさなかった。

 3日前に橋森に呼び出されたのは、球場近くの馴染みの喫茶店だった。
 古葉は皮肉たっぷりに橋森に言った。
 (すっかり球団職員になりましたね。今のあなたの背中は、ありふれた大人のそれですよ)
 橋森は熱いコーヒーをすすって、歪んだ顔を隠した。
 (古葉、そのとおりだ。野球の世界なら、札付きの不良でいられると思っていた俺がいた。腕っ節だけで生き抜いていけると考えてたよ。だけど、そうじゃねえんだ。お前だってわかるさ。この話を飲んで、来季を迎えれば)
 しばらく無言が続いた。なぜ、かつての同志と、青春時代の悪友と、こんな場面で相対さなければならないのだろうと惜しんだ。
 橋森は高卒でプロ入りし古葉は社会人卒だったので3年後輩だったが、同い年ということもあって、ふたりはよく連れ立って行動した。若い頃は二人で破目を外し、買ったばかりの橋森のスポーツカーで交通事故を起こし、球団に迷惑をかけたこともあった。3番古葉、4番橋森でクリーンナップを形成していた時代、夜の街で飲み潰れ、着の身着のまま球場に駆け込んだことも一度や二度ではなかった。
 (昔はこの喫茶店によく通ったもんだ)
 橋森が昔を懐かしむようにつぶやいた。古葉も同じ気持ちだった。この喫茶店で、まだ世間を知らない若さを持て余したふたりは、明日はどこで暴れよう、どの女を誘って遊ぼうなどと幼い計画を練りあった。
 (そうですね。飽きずに悪だくみをしたものです)
 古葉は、橋森がタバコを吸っていないことに気付いた。橋森はスポーツ新聞を広げて片手にタバコをくゆらせながら、計画作りをしていたからだった。
 (ああ、灰皿をもらいましょう)
 (いや、タバコはやめたんだ。ありがとう)
 橋森がタバコを絶ったのは2年前だと、後になって守備走塁コーチの横飛吉から聞いた。


 

 22年前の球界再編で産声を上げた新興4球団。そのひとつである頑張パワフルズは、頑張市に本社所在地を置くパワフル物産の出資52%、複数企業および市民の出資48%で創設された。
今、思い返しても、当時はひどい貧乏球団だった。ユニフォームは自分たちで洗濯し、陸続きであればバスで移動した。社会人野球のほうが待遇は良かった。古葉はドラフト2位でパワフルズに指名されたことを後悔したものだ。
 それでもチームは創設6年目で早くも初優勝、その2年後には日本一にも輝いた。当時の中核選手に橋森重矢、神下怜斗、横飛吉そして古葉良己がいた。彼らはプロ野球に新風を巻き込んだスターとして持て囃された。
 古葉は「天才的なバットコントロール」を備えたスイッチヒッターで、入団2年目から首位打者争いに名を連ねる強打者だった。神下は抜群のコントロールとシンカーを武器に、狭い頑張市民球場を本拠地に持ちながら2割台から3割前半の防御率を維持し続けた。横飛は初優勝の前年からセンターとして台頭しはじめ、持ち前のハッスルプレーで観客を湧かせる選手となった。
 しかし、その中でも橋森重矢の人気は別次元だった。創設まもない頑張パワフルズが最初のドラフトで獲得したのは、大部分が大学・社会人野球で活躍した即戦力の選手だったが、ただ一人、高卒の選手で指名されたのが橋森だった。
 地元高校の出身で、荒削りなホームランバッターだった橋森は、すべてのパワフルズファンにとって甥っ子のような存在だったのだろう。大言壮語の癖がある、その華やかなキャラクターは頑張市という下町のファンに愛された。持って生まれたリーダーシップとスター性があった。
 『Be Powerful!』
 球団創設時のスローガン。逞しい、力づよい、勇ましい、強烈な、あくの強い――橋森はスローガンとパワフルズの象徴だった。「熱血フルスイング」と称された橋森の打撃は、三振かホームランか、という典型的なパワーヒッティングで、そのアーチは高々とあがって滞空時間が長いのが特徴だった。まるで花火大会の会場に行くように、橋森のホームランを目当てに球場に足を運ぶファンもいた。
投打がかみ合い、また、主力選手の脂がのった時期が重なって、頑張パワフルズは黄金時代を迎えた。それが2度の優勝をまたぐ数年間だった。
 しかし、早過ぎる黄金期は衰退も早かった。資金力の乏しいパワフル物産を母体としたパワフルズに戦力を補強する余裕はなく、また球団フロントも現場も楽観主義のぬるま湯に浸かって、弱体化するチームの現実から目を逸らした。未熟な首脳陣と経験の少ない選手ばかりで、それでも奇跡的に結果を残してきた野武士集団のようなパワフルズが、崩壊の坂道を転がり分裂の陥穽に嵌まるのは時間の問題だった。
 クリーンナップの一員として5番を打っていた外国人選手が、契約上の不満から他球団に移籍したのを皮切りに、中継ぎ、抑えの投手が次々と流出した。パワフルズに限ったことではなく、新興4球団と既存球団の年俸の格差は依然として大きかった。橋森ですら、1億円プレイヤーになったのは2度目の優勝を果たした年であり、数字上は橋森を超える成績を残した古葉が1億円の大台に乗るのはその翌年のことだった。
 橋森は死球による手首の打撲や、右ヒザ半月板挫傷など、度重なる故障に悩まされた。神下は一定の防御率をコンスタントに記録し続けたが、打線の援護なく勝ち負けの星が反転した。
転落の一途を辿りながら、フロントは過去の栄光を引きずり、監督に無理難題を与え、選手たちを委縮させ士気を下げていった。


 

 最後の優勝、日本一から10年を覆うパワフルズ暗黒時代に、独り気を吐いたのは古葉良己だった。現在ショートを守る小波は古葉に憧れて入団したが、彼の憧れたのは黄金時代の彼ではなく、むしろ孤軍奮闘する古葉の姿だった。穏やかでありながら、逆境に屈しない反骨心を秘めた古葉を敬愛する選手は球界にも数多い。
 しかし、マスコミはすでに頑張パワフルズの浮上に期待してはいなかった。落日のパワフルズは結果を求められないかわりに、スター性のある橋森の一挙手一投足と、日本人の好む覗き見主義のお家騒動が話題の主となった。とくに、スタイルの違う橋森と古葉はマスコミにライバルとしてねつ造され、意見の相違は本人たちのあずかり知らぬ紙面上で、すぐさま確執へと発展していった。
たとえば、和製大砲として鳴り物入りで入団した福家花男を古葉は正直に評価した。
 「彼は良い素質を持っていますよ」
 というと、記者はこう聞いた。橋森選手とはどちらが上だと思いますか?
 「確実性では福家君のほうが期待できると思いますね。守備も、シゲより上手いでしょう」
 それは永年の戦友との気の置けない間柄と、新人福家への配慮を感じさせるコメントだったが、つねに新鮮で刺激的な情報を発信しなければならぬマスコミは、そうは伝えなかった。
 『古葉、三遊間を組むなら福家』
 『橋森の守備を公然と批判』
 直情径行型の橋森は記事を見て激昂し、記者は下世話な内紛のコメントを期待して彼に群がった。ふたりは歪曲される情報の中で踊らされ、次第に疎遠になっていった。
 古葉のFA騒動の時もそうだった。橋森はFAを行使せず残留を表明し、「生涯パワフルズ」を宣言した。それは地元出身で義理堅い彼の性格によるものだった。その数年後、古葉はFA資格を獲得して行使した結果、4年10億でパワフルズと合意した。
 (古葉君は球団への愛情が足りないね)
という当時のオーナーの発言は、フロントと古葉との軋轢を生むと同時に、球団から見た古葉と橋森の評価を如実に表したものだった。パワフルズにとっての嫡男は優等生の橋森で、頑固一徹な古葉はあくまで次男でしかなかった。
 「球界で再評価を受ける権利を踏みつぶされることは不当だ」
 懇意にしていた記者に誘導された古葉のコメントは、さらに両者の対立と不信感を生んだ。二年連続リーグ最下位に終わったシーズンオフのお家騒動は加速度的に発展し報道された。そして1年換算で2億5千万の契約は、橋森の2億3千万を超えるもので、橋森・古葉の確執として恰好の話題となり、マスコミはさまざまな憶測を書き連ねた。
 「古葉が橋森を意識して、球団との交渉時に橋森より上の年俸を要求した」
 まことしやかに流布された報道を、古葉はもう否定しなかった。野球以外の部分でなぜこんなにも疲れなければならないのだろうと感じた。橋森よりも高額の年俸を求めたのは事実だった。しかし、意識したものではなく、当然の対価だった。自分がどれだけタイムリーヒットを打ってチームに勝利を引き込んでも、神下が神経をすり減らして完封を成し遂げても、ファンやフロントは試合に影響しない橋森のソロホームランを喜んだ。

 諦めによる歪んだファン心理と、パワフルズを広告宣伝の一環として見るようになった球団フロントに、最初に決別を宣言したのは3人の中でもっとも聡明で理知的な神下怜斗だった。
 パワフルズを引退後、彼は自身のパワフルズカラーを払拭するため他球団の投手コーチに就任した。そして、たんぽぽカイザースが猪狩コンツェルンに買収された新年度、野球に対するスマートな思考と高い知名度が猪狩コンツェルンの構想と合致し、監督に抜擢されたのだった。


 

 7回裏の代打によって館西が交代し、中継ぎの手塚は8回表を3者凡退に抑えた。
 サード強襲のゴロが飛んで、福家は身体の前で打球を止めてから落ち着いて古葉へ送球。アウトを間近で聞いて、古葉はベンチへ引き返す。橋森のように足はないが強肩を生かした福家の守備は安定感がある。コンスタントに3割30本をたたき出すこのスラッガーは、「ミスターパワフルズ」と呼ばれるまでになっている。近年、パワフルズが輩出した唯一のスター選手だろう。

 原油に塗れた海鳥のように、羽ばたくための翼を失った頑張パワフルズは、日本一の次年度の4位以降、Bクラスに低迷し続けた。この間、最下位が4度。橋森は36歳で現役を引退し、若くして監督に就任した。その年、新たなスローガンを打ちだして球団の意識改革を促した。
 『われらチームのために!』
 フロントもコーチ陣も選手も、みな一丸となって勝利を目指そうと掲げたスローガンは、チームを「勝利を目指す集団」と位置付ける橋森と、「利益を創出する事業部」と考えるフロントとの埋まることのない溝を鮮明にした。それが2年前、福家のFA問題だった。福家ですら、想像していた年俸との乖離のため、お家騒動の渦中に放り込まれることになった。
 福家と球団フロントの認識の相違は、福家がかつての橋森のような、ひとりで観客を呼べる本当のスターではなかったからだろう。勝利を呼んでも利益を生み出さない高給取りは、経営側にとってみれば遇しがたい存在でしかなかった。
 そのころ古葉は、生え抜きのベテランとしてチームの精神的主柱になっていた。
 橋森を中心に据えたパワフルズ球団からすれば、そんな古葉は目の上のたんこぶであり、毎年、その去就について議論がなされた。現場で指揮する橋森にとって、古葉はまだ貴重な戦力であり擁護にまわるのが常だったが、中間管理職である彼には最終的な意思決定権はなく、古葉を冷遇するフロントの思惑と不充分な戦力でペナントレースを戦い抜かなければならない実務のあいだで、橋森はどうにかバランスを保つしかなかった。橋森もまた、巨大な組織の中での葛藤に声なく喘いでいた。
 マスコミに対する不信と橋森への遠慮から、古葉のじょじょに口を閉ざした。求道者然とした達観した雰囲気をまとうようにさえなった。それでも、福家のFA問題では若い選手を思うがゆえに彼を擁護し、若い選手から絶大な信頼を得ると同時に、内紛劇を助長させた主犯としていよいよ立場を悪くしていった。


 

 「さあ、優勝は目の前だ!」
 8回裏。ベンチの前で円陣を組むパワフルズ。橋森監督が音頭を取る。1番からの好打順。逆転するならこの8回裏がもっとも可能性が高い。
 「14年だ。長いながいトンネルを抜けて、お前らがテレビで見ていたあの瞬間が、ようやく手の届くところに迫っている」
 橋森は鼻をぐっと抑えて涙を流すまいとする。選手たちに少し和んだ空気。
 「パワフルズの2度の優勝は、どっちも本拠地優勝だった。
 今日、ここで決めてやろう。ファンと優勝の喜びを分かち合おうぜ」
 男たちの掛け声。1番の矢部が打席に入って、みんなはダグアウトのベンチに座る。古葉は、橋森が仁王立ちする後ろに立つ。後ろ手に腕を組んで、老人のようにもの静かに声をかけた。
 「シゲ」
 そう呼ばれるのは久々だった。監督に就任してからずっと、古葉は橋森を「監督」と呼んでいた。橋森は首をひねって一瞥を向け、それからまたグラウンドに顔を向きなおした。
 「あの話のことですよ。ちょっと考えたんです」
 「やめろよ。試合中は勘弁してくれ」
 低い声で橋森。古葉は話すのをやめなかった。
 「君は、球団が私を、打撃コーチの次は時期監督に考えている、と言ったね」
 「……球団社長の持っていた資料にそう書いていたよ」
 球団社長は、パワフル物産の元財経部長だった。パワフル物産が1,000億の有利子負債を抱え、人員削減と資産圧縮、不採算事業からの撤退を断行したパワフル物産構造改革。その当時、取引銀行団を相手に丁々発止の攻防を繰り広げた人物だった。近年の頑張パワフルズの躍進は、親会社を相手に補強資金を勝ち取った球団社長の力によるところも大きかった。
 「君は人を信じすぎる。あくまで球団はカリスマをトップに据えたいさ。私はその補佐役です」
 「ちがう」
 「ちがわない。社長は君が無断でその情報を流すこともわかっていた。
 君の責任感と、どうしようもない情の深さをうまく利用したんです」
 「……」
 「社長が私を取り込みたいのは、きっと神下のときと同じ轍を踏みたくないがためです」
 橋森はくちびるを噛んだ。古葉の言ったとおりだった。これ以上、黄金時代のメンバーが喧嘩別れで球団を去るのをフロントは恐れている。また、にわかにフロントの古葉への評価が上がっていることも原因だった。
 (古葉って意外に人望があるんだな。ガッハッハ)
 球団社長は食後にコーヒーを飲みながら豪快に笑った。福家のFA問題で最終的に説得をしてみせたのは古葉だった。若手の小波や矢部は古葉の熱烈な信奉者でもある。今まで確執を繰り返してきた古葉を、今度は手のひらを返して味方につけようとしている。
 恥とは何だ? 誠実さとは何だ?
 橋森は、還暦近い小柄な老人――球団社長に問いかけたかった。その顔は真人間のようでいて、どこか化け物じみた不気味さを湛えている。球界の大御所たちの爽快な威圧感とはまったくちがう、厳格で濁ったオーラがある。
 (おい、橋森。古葉と話をつけてくれ。今季で『任意引退』して、打撃コーチに就くように)
 30年、野球だけをやってきた。野球で結果さえ出せば、思い通りに生きていけると思っていた。しかし今、自分は狡猾な人間たちの手駒となっている。何一つ、信じた道を進めていないじゃないか。


 

 矢部が内野安打で出塁する。にわかにスタンドは盛り上がり、照明灯の光に赤いメガホンが揺れる。歓喜への期待が膨らんで球場全体が一体になる。まだ感覚は残っていたのか。
 12年前、14年前の優勝の試合で感じた胸の詰まる昂揚に、古葉も橋森も涙ぐみそうになる。
ビジネスだ、金銭だと割り切れない勝利への渇望、優勝への執念によって自分たちは野球を続けている、そして、この気持ちを決して知らないだろうフロントとの乖離のために、古葉と橋森は道をたがい、どれだけの時間を浪費しただろう。
 それでも今、岩に流れを分担された河の水が、やがてひとつに合わさるように、ふたりは想いを共有しているように感じていた。
 シゲ、古葉がかつての悪友へ呼びかける。
 「今日、優勝することができたら、私は引退の話を飲もうと思っている」
 そろそろ引き際だ、古葉は言った。
 悲しくはなかった。ただ、かつてのライバルたちへの申し訳なさが残った。
 「優勝のめでたい日なら、ごまかせそうな気がするんだ」
 「自分を」
 「ああ」
 2番は内野フライを打ち上げてしまい、1アウト1塁のまま変わらず。
 「こんなに采配に気を使う試合は初めてだ」
 橋森は真顔でいう。
 「そうでしょう。監督とは元来そういうものだ」
 粘ったあと、3番の小波が左中間へのツーベース。ライナー性のあたりであったため、矢部は本塁に突っ込むことができなかった。1アウト2、3塁。
 猪狩カイザースは満塁策を取って、4番の福家を敬遠する。
 5番打者が打席に入る。6番には古葉。ネクストバッターズサークルに入る前に、橋森に聞いた。
 「代打は?」
 「まさか。古葉。頼むぜ」
 橋森は握りこぶしを古葉に突き出す。昔のように気の置けない笑顔で。
 「いいのか。私で」
 「いいさ」
 「いや、フェアじゃない」
 「わざと打たない?」
 「匙加減ひとつだ」
 「ありえねぇよ、お前に限って。本拠地で優勝したいだろう」
 「もちろん」
 「そりゃそうだ」ニカッと橋森が笑う。「なんせ、俺も本拠地で優勝したい」
 スクイズを警戒しながらも、5番打者は不利なカウントに追い込まれ、最後は空振り三振を喫した。古葉の名前がアナウンスされる。
 膝立ちで準備していた古葉は、すっくと立ち上がり、打席に向かう。
 「シゲ」
 「なんだよ」
 「今日は久しぶりに酒を飲もう、そして、私たちは悪だくみをしよう。今後のパワフルズについて」
 「おー、いいぜ」
 若いときみたいに、夜が明けるまでな。
 背中でそれを聞き、古葉は愉快な気分で打席への道を歩んでいった。緊張などまるでなく、リラックスしていた。
 スタンドからは観客が、ロートル選手であることを忘れさせるほど、古葉に対して切実な声援を投げかける。空気が痺れる。ファンの巨大な声援は耳から入って、集中する身体の中で滅していく。久しく忘れていたこの感覚。そしてこんなとき、古葉はいつも結果を残してきたのだ。


 

 その日、頑張市の街の明かりは遅くまで消えることなく、喧騒が絶えなかった。子どもだけでなく、往年のパワフルズファンも涙を流して乾杯しあった。テレビには、14回の胴上げをされた橋森監督が何度もなんども映し出された。
 そのあと、橋森と古葉で交じ合わされた握手のほんとうの意味を知っているのは、彼らふたりしかいないだろう。「パワフルズ万歳」「パワフルズ万歳」、ファンたちの唱和が繰り返される中、チームへの深い愛情と、球団へのささやかな反逆の誓いとして、手と手は強く握られた。


| パワプロSS | 16:26 | comments(2) | - |

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