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君の願いを僕の願いに

パワプロ小説礼讃

『バンダナ』 ――ゴズィラさん(誰と幸せなあくびをしますか。


芥川龍之介の短編小説の『トロッコ』。あらすじはこのような感じである。

近くで始まった鉄道敷設の工事で、少年は土を運搬するトロッコに興味を持つ。ある日、ふたりの親切な土工さんと仲良くなり、ぞんぶんにトロッコを押すことが許される。はじめは有頂天になっていた少年だったが、トロッコが家を遠く離れ、日も暮れていくにつれて不安になってゆく。そして行き着いたところで土工さんから「もう帰んな」と言われ、たった一人で歩いて帰ることになる。
少年は、これまでの人生で一度に歩いた距離の3、4倍はあろうかという道のりを、落ちていく夕陽とともに、泣くのをこらえながら帰っていく。そして家にたどり着いたとき、少年は大声でわっと泣き出す。――少年は大人になっても、ふと、その日の「薄暗い藪や坂のある路」を思いだすことがある。

(ちなみに、青空文庫で無料で読めるので、ご興味のある方はぜひ)

と、パワプロ小説礼讃であるはずなのに、芥川龍之介の『トロッコ』のあらすじを説明したが、藪から棒に、というわけではない。すでに公開されていないが、われらが盟友・ゴズィラさんに『バンダナ』という掌編がある。この作品は、パワプロ9のキャラクターである六本木優希と、同じ病院に入院しているらしい少女という、ふたりの登場人物で構成されていた。

重篤な病の床に臥す少女は『トロッコ』を愛読しており、「主人公の男の子に憧れている」という。脳の病気なのか、薬の副作用なのか、髪の毛を短くそろえ、バンダナを巻いた少女である。六本木は『トロッコ』を切なくて読み返せない、と言うが、少女は、作中の少年が無邪気な願望を叶えたように、自分も夢を実現させてみたい、と六本木にこぼす。彼女の願いを聞いて、返事を臆する六本木に、彼女はなおも続ける。

「じゃあさ、ユウキが代わりに、私の願いを叶えて」

少女の言葉を、六本木の耳を通じて、作者はこう表現していた。「今だとばかりに胸の奥底に詰まっていた悪玉を全部吐き出した様な、ただただ優しい口調で」。それはきっと純粋な客観的描写ではなかっただろう。六本木もまた、脆い身体に宿る灯を消さないように注意深く生きてきたのであって、そんな六本木にとって、少女の願いは哀切であると同時に重すぎるものだった。不治の病に冒された少年のためにホームランを打ってみせた、あの屈強な「ベーブ・ルースにはなれないんだよ」、と六本木は懺悔する。

少女は、自分のバンダナを六本木に譲る。六本木はそれをためらわず巻いてみせる――それは少女の願いを託されたことを意味する。それから少女は、絶望的な言葉を口にしようとする。六本木は制すると、少女は六本木のことを「優しいね」、という。ただただ、お互いに優しさだけを分けあう。

最後に、六本木に持病の発作が起こる。ナースコールを押す以外は、全身に激痛が走って動くこともままならぬほどの発作である。隣のベッドに横たわって苦しむ六本木に、少女はいう。

「私もごめんね。今の私じゃ、貴方を見守ることしか出来ないの」

六本木は、みずからの呻きと反比例するように、大きくかしましくなる蝉の声を聞く……。意識がフェードアウトするとともに、蝉の鳴き声だけが残る、映像的な幕引きである。

ぼくは、最後の場面を読んだとき、なんて無力で哀しい関係なのだろうと感じた。見つめ合うことしかできず、悲恋にも至ることなく終わるだろう、ふたりの関係は残酷である。願わくば続編として、ベーブ・ルースとなって少女を救う六本木の話を読みたいと思うが、それは作者を尊重せぬ横暴な読者の振る舞いとなってしまう。どうしようもなく、やりきれない。

昔の作品を掘り起こして礼讃するのは、当のゴズィラさんにとって甚だ迷惑なことであるかも知れない。しかしながら『バンダナ』の、小さなふたりの無力さを否が応にも突きつけられる幕引きが、不思議な美しさを孕んで今でもぼくを苛むのであるからして、お互いさまと開き直るつもりはないのだけれども、今回採りあげさせていただいたこと、何卒お許し願いたいのである。


| パワプロ小説礼讃 | 19:06 | comments(2) | trackbacks(1) |
表紙に頬を当てながら……
 パワプロ小説礼讃

『夜更かししたい夜に』  ――lnanさん


 FourRamiさんのサイト『海の見える高台の家』で開催されていた小説コンクール、「一筆夢想」。1ヵ月の期間に投稿された作品に対して、設置された投票所での投票数で最優秀賞を決めるこの催しには、パワプロの二次創作だけに限定されない様々な作品が集まったものだ。たんに自分の作品を公表するための受け皿としてだけではなく、ジャンルも違えば作者の年齢も違うほかの方の作品を読めた貴重な場として、いまでも愛着を感じざるをえない。

 そうした自由参加型のコンクール、コンテストは、事前の検閲ないクリーンな場であるからこそ、作品のよしあし、巧拙にかなり幅が出てき、ときに何の前触れもなく、驚くほどの完成度、秀麗な文章と、面白いコンセプトを持った作品を投稿される。ぼくにとって、もっとも興味深く、あこがれの人ですらあったのが、合計で4作の短編を投稿されたlnanさんだった。

彼女はあまり気が進まないふうでいたが、おれが想像する不安材料を勝手に並べては、あれやこれやと解決策をしつこく熱弁しているうちに、最終的には「本当にいいのね?」と念を押しながら承諾した。 (『ダムに沈む家、沈まない田舎』より)

 はじめてlnanさんが投稿された『ダムに沈む家、沈まない田舎』の一文。盆に妻の実家を訪れようと提案する主人公の夫に対しなぜか渋る妻、それを夫が説得する場面。何の変哲もない文章かもしれないけれども、リズムと、語彙の豊富さ、そしてその使い方がぴったりと板についている感じが心地よく、はっとさせられた。

 オンライン上で、一読して「書き慣れているな」と思う作品に出合うのは、なかなか稀だ。「書き慣れている」とは、おうおうにして「読みなれている」ということである。lnanさんの登場にぼくは歓喜した。彼の腕前をわかるのはぼくしかいまい、というふうな、自分の批評眼へのおごりと通人ぶった優越感を持ったものだ。

 その次に投稿された『真中島の死闘』は、野球ひいてはスポーツを語る上で陥りやすい、台本小説化の要求を見透かしてありのままをメタ的に表現してみせた実験的作品だと思う。(拙評「パラドックス?」参照) 3作目の『キョウザクラ』では、桜木の真下、春の夜のボーイミーツガールを美しく描いている。

 まるで父親の持つ腕時計の醸し出す高級な雰囲気や、革の名刺入れの匂い、電子手帳の精巧さに子どもが興味を持つように、ぼくはlnanさんの作品に何度も目を通した。きっと自分よりずっと年上の人なのだろうと思おうとした。若さをアドバンテージとして考えなければ嫉妬心を持ってしまいそうなくらい、あの人の文章はぼくの理想に近かったからだ。心象を克明に観察し、切り開いて骨肉を晒し、成分を解析してみせる、あの近代純文学の肌触りがlnanさんの作品にはあって、しかもそれは、ぼくの書いたSSや短編のどれよりも淀みなく巧みだった。

 『夜更かししたい夜に』は、lnanさん唯一の二次創作で、パワポケ1の進藤明日香とのイベントを題材にしたもの。所属する野球部の甲子園出場を決めた小波は、甲子園に出立する前日、入院している病弱な恋人・明日香に会いに行く。面会時間を過ぎても、「ねえ、もう少しだけ。もう少しだけでいいから、まだ帰らないでくれない?」とせがむ明日香の頼みを聞き入れ、明日香の将来の夢について話しをする。明日香の夢は絵本作家だという。小波は恋人を励し、お墨付きの言葉を与える。
「明日香ならなれるよ。おれと違って頭いいから」
「ホントに? でも、ちゃんとなれるかしら……」
「なれるさ。きっとなれる。書き上げたらおれにも見せてくれよな」
「ありがとう。きっと、一番に小波君に見せるわ」
それだけ話すと、明日香はひどく疲れたふうな息を漏らした。再び周囲は真っ暗な沈黙に覆われた。大勢の人がすぐ近くで過ごしているはずだというのに、ただ、ひっそりと小波と明日香の周りにだけ時間が過ぎていっているようであった。
 小波の高校は甲子園に出場し、前評判を覆して決勝まで駒を進める。そして決勝戦、ピッチャーである小波の奮闘もあり、9回裏まで4-2でリードしていた。しかし、1点を返され、なおも満塁のピンチに陥ったとき、相手に投球フォームのクセを読まれていると感じた仲間のアドバイスもあり、昔の投球フォームに変えてみる土壇場での大ばくちを打つ。

 小波は父親や弟、そして明日香と昔の野球の絡む記憶を想起する。ふと、届くはずのない明日香の声を聞いた気持ちになる。小波の最後の投球はイメージと寸分の狂いない球筋で、バッターをダブルプレーに打ち取り悲願の全国制覇を達成する。
 そして、帰りの新幹線で小波とチームメイトに明日香の死が伝えられる。「携帯電話を取り出すと、おろおろと当てもなくボタンを触り、それから、しばらく頭を抱えて何事かしきりに底なし沼の底から漏れるような声でつぶやき、最終的に両手で顔を覆って動かなくなった。」という小波の様子は、実に痛切である。

 自宅に帰った小波は父とともに明日香の家に向かう。明日香の母親に迎えられ、棺に納まった明日香と対面したときの小波のたたずまいの叙述は、克明で精緻を究める。心理に様々な角度からメスを入れ、じりじりと真実へにじり寄っていく書き方は、語り手に冷静で残酷な印象を与えると同時に、小波のかなしみをいや増す効果を与えている。
小波は自分の瞳が潤み始めたことを気づくと、歯を食いしばり、拳を握り締めて涙をこらえようとした。我が子に先立たれた明日香の両親の手前、ぼろぼろと涙をこぼすことが僭越であるように思えた。あるいは、明日香が不憫であると思うことがおこがましいことであるようにも思えたし、明日香に死なれた自分が悲しいのではないかというひねくれた考えに意地を張らねばならぬようにも思えた。また、感情をあらわにすることで、自分と明日香だけが秘密裏に共有していた思い出のたぐいを暴露してしまい、第三者の面前で陳腐化されてしまうのではないかと恐れた。
 明日香との別れとなった葬儀から数日後、小波は明日香の母親から、学校の授業に出られない明日香のために貸していた自分のノートをお礼とともに手渡される。ノートをめくると、未記入の部分に紙が挟まっていて、自分の筆跡ではない文字で、感謝の言葉がつづられていた。そして明日香の感情を追うように他のノートに目を通したとき、「妙に新しい」ノートを見つける。そこには明日香の創作の跡である文字やイラストがあり、数ページ空いて、『夜更かししたい夜に』というタイトルの短い物語が残されていた。
内容は、男の子か女の子かはっきりしない外見で描かれた子供が、少し遅い時間から始まるテレビ番組を見るために起きていようと、あの手この手で奮闘するといったものであった。子供は時々親に起こしてもらったり、お茶を飲んだりしながらなんとか番組を見ようとするのだが、結局最後には眠ってしまい、両親に寝床まで運ばれるというところで物語は終わっていた。
 饒舌な作者であれば、この短い物語から明日香のいじらしい感情を1,000文字を費やして書くだろう。しかし、lnanさんはそうしなかった。後には、ただ「小波はノートにこもっていた明日香のぬくもりを感じようと、表紙に頬を当てながら身を絞られるように涙を流した。」と、突き放した描写だけがある。
 読者のとまどいはここから始まる。母親の手から急に引き離され、泣きながら帰り道を探そうとする寄る辺ない幼児のように、どうにか感情の落としどころを見つけようと努める。『夜更かししたい夜に』という作中作は、タイトルであるとともに悲恋を収斂させる形象となっている。

 ともかく、ぼくの下手な要約では誤解を招く危険性もあるし、解釈を狭めてしまうかも知れないので、小説投稿掲示板のログに残る原文を読んでいただきたいと思う。(というのは、この「パワプロ小説礼讃」の第一弾で紹介した荻原さんの『Sleeping in the Flower』のあらすじで、最後の部分がぼくの誤読だった反省からです。す、すいませんでした!)

 自由参加のコンクールでは、各々の作者さんの交流に必ずしも結び付かず、けっきょくlnanさんの人となりは知らずじまいである。この「パワプロ小説礼讃」のため、久々にlnanさんの4作品をすべて読み返して、改めて感動すると同時に、なぜFourRamiさんの「一筆夢想」に投稿されたのか、どのような小説家を愛読してらしたのか、と、今となっては何となくそんなことに興味が走ってしまう。

| パワプロ小説礼讃 | 00:25 | comments(0) | - |
ハンドメイドのアクセサリー
パワプロ小説礼讃 

『無くした』 『ドール・キャンドル・バースディケーキ』 
  ――SUISEI1号さん(CELERY TOYS)




 SUISEI1号さんの『CELERY TOYS』が完全閉鎖してしまったのは2008年3月末日のこと。この『パワプロ小説礼讃』でヘボンさんまで投稿し終えて、さて次はと考えていた矢先のことだったので、非常に落胆した。『CELERY TOYS』は、早川あおいとパワプロ9の九十九宇宙を主軸にした作品のほか、ボーイズラブの要素も含んだ数多くのパワプロSSが公表されていて、その多くにパワプロの熱血で爽やかな世界観とCoccoに影響されたメルヘンチックな空気が調和した雰囲気の中に、女性らしいきめ細やかな鋭い観察眼があって、ぼくは密かにファンだった。

 私ごとの話でお許し願いたいが、早川あおいの父親への思慕を描いた拙作『くちぐせ』は、『CELERY TOYS』の短編『無くした』とかなり似通っていて、思わず先を越された、と思った。あらすじとしてはどちらも、孤児となった早川あおいが、疲れた寝床で、死んだ母親とまだ見ぬ父親へ想いを馳せるストーリー。とはいえ、両者の違いは、SUISEI1号さんがあおいをひとりの女性として描いており、父親へのあこがれに何か恋慕に近い趣きを備えている点があり、拙作においては幼少期のあおいを主人公に据えて、性の目覚めよりも以前の、まったく孤児の心で描いたという点がある、と思っている。

 ともかく、気に言っていた作品群が二度と読めなくなるのは寂しいことだ。ネット小説界の大御所で、野球小説では「Swing out」が有名な東堂杏子さんのWebサイトが閉鎖した日も、ヘボンさんの『燃えよ左腕』や、SUISEI1号さんの数多くのパワプロSSが読めなくなったときも、ぼくらは何の権利も主張し得ない。それは球場で見た試合と似ている。その場と幾日かの興奮と感動の継続、そしてじょじょに静かに記憶から霞んでいき、いつか忘れたことさえ忘れてしまう。


 SUISEI1号さんのSSでも、阿畑との友情+αや、そこに芹沢茜を交えた三角関係、あかつきのメンバーとの交流などで特に題材にあがることの多かったのが九十九宇宙。いちおう紹介しておくと、九十九宇宙というのはパワプロ9のサクセスでプレイする高校を「あかつき大附属」にしたときに登場するキャラクターで、主人公の1年先輩、栄光あるあかつきナンバーナインの一人。つまり二宮瑞穂、三本松一、四条賢二、五十嵐権三、六本木優希、七井アレフト、八嶋中と同世代の外野手である。

 そして、パワプロのサクセスでレギュラーとなっている阿畑やすしと「中学時代親友」であり、のちに阿畑やすしの妻となる芹沢茜に想いを寄せている設定。主人公に阿畑との中学時代の関係を聞かれて「野球だけやない、ケンカも勉強も他のスポーツも」圧勝だったが、「でも一つだけ勝てん事があった」として、芹沢茜への片思いとその挫折を暗に示すイベントがある。そういう気持ちを胸中に秘めながら、高校になって久々に阿畑と再会しても懐かしい顔に会えた嬉しさを表すだけで、ひょうひょうとふるまい野球に打ち込む姿が、SS作家の触手を動かせる魅力でもあった。

 ただ、九十九のキャラの魅力というのは、男性の書き手と女性の書き手でかなり変わってくると思う。男性的な観点では、九十九の魅力は「集中力」といった禅的でもある精神面の鍛錬によりあかつきのレギュラーを勝ち取ったところが大きいと思う。同世代のあかつきのメンバーが、みな突出したエキスパートの部分を持っているのに、彼だけが一見平均的な能力しか持ち合わせていない。それを自覚しながら生き残る術を模索して、たどり着いたのが「打席での集中力」だった。

 彼のいぶし銀的なポジションと、悟り達観したような態度は、男性の書き手に「一見普通だけれど、実はここ一番に凄い神通力を持っている脇役」という、少年心くすぐる役割のキャラクターにすっぽり当てはまるので、自然、野球を軸とした物語を考え、組み立てさせられる。

 その反面、女性的な観点で言えば、九十九は阿畑と茜との関係もあり、恋愛物に出てくるような、親友のカップルの女に恋心を秘めていながら関係を崩すことを躊躇い、紆余曲折がありながら最終的にはふたりを見守ることになる、陰影のある理性的な人物となる。六本木優希のような、病魔と闘いながら野球を続ける背景を持っている人物もなかなか創作意欲を擽るものがあるが、六本木と九十九の一線を画すのは、そこに身近な同情を誘う人間味があるからだろう、かくいうぼくも、あかつきナンバーナインでは九十九が最も好きである。

 ただ、加えて言うとSUISEI1号さんの『ドール・キャンドル・バースディケーキ』の、誕生日に阿畑から贈られたケーキに、彼の過去の意図せぬ暖かな振る舞いを思い出して胸を詰まされるという、親友の枠を超えたSSのように、九十九と阿畑とのカップリングがなされることも多い。思うに、女性と男性の『親友』の定義の差こそあれ、九十九の秘めた恋心は女性にしてみれば同じく乙女の心情を持っているので、感情移入がしやすく、ボーイズラブにおいて女形になりやすいのだろうか。

 外見的には、五十嵐や三本松ほどではないにしても、猪狩や一之瀬などの美形キャラではなく男性的なデザインの九十九宇宙なので、九十九が少年愛の登場人物になるSUISEI1号さんのSSを読んでいて、何だか女性の関心の持ち方は奥深いものがあるのだな、と思ったものだった。コナミさん、しょせんゲームであっても人物造形で大事なのは見た目じゃないです。

 と、最後に、すでに『CELERY TOYS』のSSが読めないために九十九宇宙に端を発した二次創作における男女の興味関心事の差という考察が主になってしまったことを心からお詫びします、ホントに。また『CELERY TOYS』の綺麗なハンドメイドのアクセサリーのようなSSが読みたいものです。

| パワプロ小説礼讃 | 00:46 | comments(4) | - |
俺は誰かに重ねられるのが嫌なんだよ。
パワプロ小説礼讃 

 『3月の雪』   ――龍さん (PAWAPURO'SWORLD!)


 世界的な指揮者である朝比奈隆さんが「ぼくはベートーベンやブルックナーがどんな人間だったかなんて知りたいと思わない」と発言しているのをどこかで読んで、芸術を解釈するとはそういうものかと驚かされたことがある。けだし、その人の性格や風貌や時代背景なんて必要ではない。表出された創作物がもっとも彼自身なのであり、その他の要素は上辺に過ぎないという意味だったんだろうと思う。

 といっても、ぼくは高尚な人間ではないから、やっぱり尊敬する芸術家がどんな顔をしているんだろうとか、生活のあり様なんてものを覗き見たがる。国語の教科書で、梶井基次郎の短編『闇の絵巻』を読んだ文学少年が、その繊細で鋭敏な感受性によって綴られた作品に魅せられ、ふと末尾に記載された作者の顔写真に絶句するのは古くより連綿と続く鉄板ネタの一つであるが、この話に象徴されるように、どうも文学作品と作者の風貌は――少なくとも私たち日本人にとっては――切っても切り離せないところがあるようだ。(きっと堀辰雄とか立原道造みたいな顔であれば鉄板ネタにはならなかったろうなァ。あまりにも文学者離れしすぎている。)

 閑話休題。

 『PAWAPURO'SWORLD!』の管理人である龍さんは、ぼくにとってそんな人なのである。この作家は男前なのだろうと独りでに思わせる。それは文体や言葉の選び方、言い回しだけではなくて、主人公の振る舞いや女性の感情の機微を丁寧にそして興味深く書いてみせるからだろう。

 そうした印象は、虚飾として作風を弄んでいるのであれば決して読者には感じられないものであり、だからこそぼくは龍さんを尊敬しているのである(そしてときにちょっと疎ましく思う)。龍さんのような人はパワプロ小説の書き手では稀有な人物である。きっと龍さんイケメン説を提唱している論者はぼくだけではないはず。

 龍さんの物書きとしてのキャリアは長い。すでに大御所の位置にあって、初期からはずいぶん様相を変えているけれども、『PAWAPURO'SWORLD!』はパワプロ小説サイトとして立派な老舗である。おそらく、ぼくが初めてパワプロ小説の書き手として誰かを認識したのも龍さんではなかったかと思う。
 当時、龍さんの作品としては、パワポケの世界観を下地にして、おなじみオリジナルキャラの汐瀬龍之介と真藤拓郎が出演する『極亜久ハイスクール』や十文字明彦の活躍を描いた『The myth of a dream』といった野球長編小説が主だった。その頃の龍さんの文体はいわゆる「台本小説」だったけれども、現在と変わらない地の文での描写の的確さや登場人物の造形の巧みさがあったし、パワプロ・パワポケを題材とした創作に対するたしかな興味が感じられて、とても好感を持った記憶がある。何より長編をいくつも完結してのける旺盛な活力と自制心はぼくには今もなお持ち得ないものなので、当時から今日に至るまで、やっぱり龍さんはぼくにとって特別な作家なのである。

 ただ、現在の『PAWAPURO'SWORLD!』で『極亜久ハイスクール』およびその改訂版や『The myth of a dream』、『グランドフィナーレ』などは公開されていない。その代わり、主人公とパワプロ・パワポケの女性ヒロインとの関係を描いた優れた短編を読むことができる。

 以前にレビューを書かせていただいた、パワプロ6のしあわせ島の収容所長ヘルガとの悲恋『オオカミ少年』や、パワプロ13の世界を舞台に、橘みずきの婚約者である乾(主人公のパワプロ君の立場)へ告白をし現状の変化への恐怖に決別する六道聖の話『天国と地獄へのエレベーター』、パワポケ4の一つのイベントをモチーフに天本冷泉と主人公が、人の死と儚さの影で心を通わすことの浄福を知る『僕が一番欲しかったもの』……。

 龍さんの作品において、主人公たるパワプロ君は作者の投影であるか、もしくは理想である。最初に龍さんはイケメンだ、と言ったのは、主人公の汐瀬龍之介や真藤拓郎、乾くんがかっこいいからに他ならない。彼らは、個々に違いはあるけれども、粋であり、ときおりキザに振る舞い、かと言って冷笑的ではなく、ニヒルに没することなく(十文字明彦はややニヒルか?)、あるときは照れ屋な一面も見せる。他人の心に無頓着なようでいて、むしろ人一倍に敏感で、優しく、傷つきやすく、しかしみな一様に確固たる信念、純粋で一本気な、強いココロの芯を有している。

 『3月の雪』では汐瀬龍之介を主人公に、四路智美との一度ばかりの逢瀬と別れを描いている。あらすじとしては、前にナンパした女の子と街で待ち合わせしていた龍之介は、待つあいだにアンケートの調査員らしい四路智美と出会う。次の日、龍之介は前日にドタキャンを食らったので、このままでは『関西一のナンパ師』(自称)の名が廃ると、同じ梅田の街に出向く。すると、偶然にも前日の智美と再会し、彼女のデートの誘いに乗ることにする。

 映画を観終わって、レストランで早い夕食を取っていたとき、龍之介は智美にほんとうのことを打ちあけられる。前日のアンケートは嘘で、龍之介が前の彼氏とそっくりだったので、思わず声をかけたことを。龍之介は「俺を前の彼氏の代用品にしようと思ったんだな? だからこんなに付き合ってくれたんだ」と激怒し口論になるが、彼女からその前の彼氏が死んだことを教えられて沈黙する。しかし、自分と誰かを重ねられることは耐えられず、レストランで別れる。ふたりはレストラン近くの公園で、すぐに再会することになり、先ほどより、いくぶんか落ち着いた様子で語り合う。

「似ている人を好きになっちゃいけないの?」
龍之介は閉口したままだった。それでも智美は構わず言葉を続けた。
「人を好きになるきっかけなんて様々だわ。それを自分で自由に決めることなんて出来ないじゃない」
「じゃあ前の彼氏を忘れてくれよ。俺はそれからじゃなきゃ何も進まない気がする」
「そんなこと出来っこないわ。あいつは、今でも私の中に居るんだもの」
「それなら俺は智美に何も出来ないよ。俺を俺と見てくれないんだから」
「そうね。龍之介くんの言っていることが正しいと思うわ」
 そのとき、3月の雪が降る。智美はまた彼氏のことを思い出す。謝る智美に龍之介は「もういいったら」と諭す。すぐに止んでしまう3月の雪の中で、智美は龍之介に「さよならのキス」と「二度と会わない」という言葉を残して去っていく。突然の巡り合いと、うたかたの交流、不意の別離に、整理のつかない龍之介は名状しがたい想いをぐっとこらえ、「――なんでなんだよ」とつぶやく。……

 「筋たっぷりの小説」ではない。全体のあらすじを書いてしまっても、このパワプロSSの良さは失われない。むしろ、ぼくの拙いまとめ方では適切ではないかもしれないので、一度読んでいただきたいと思う。

 ぼくがこのSSを好きなのは、「昨日会ったばかりだぜ」と龍之介が言うように、わずかな邂逅の中でふたりが同じ想いを抱くところで、人が親密になるまでに時間はさほど重要ではないということが、何か説得力を持って訴えかけてくる。そして、最後には龍之介が扉を静かに開こうとしているのに、3月の雪の降る中で智美から別れを告げて去る、そのすれ違いがとても美しく綺麗だからだ。たった2日の出来事なのにもかかわらず、残された龍之介の狼狽と叫びが余韻を引く、不思議な短編だと思う。長編の構成力もさることながら、短編の抑制の利いた語り口もさすが、と感じさせる。

 最近では、実生活がご多忙のようで、龍さんの新作が出なくなって久しい。ただ、ぼくの中で龍さんは稀有な人物、興味深い書き手のひとりであり、気長に待とうと思っている。代わりになるような書き手など見当たらない、ちょうど、汐瀬龍之介がこう言い放ったように。
「俺は誰かに重ねられるのが嫌なんだよ。俺は俺だ。」(『3月の雪』)

| パワプロ小説礼讃 | 17:59 | comments(6) | - |
マジックアワーの空のように
 パワプロ小説礼讃 

 『燃えよ左腕』   ――ヘボンさん (ヘボンズヘブン)


 二次創作が容認される条件を考えるとすればひとつ、それを読んで原作をまったく損なうことなく購入意欲を湧かせるものだろう。ただし、この条件のうち、「原作を損なうことなく」という点では、原作からストーリーを派生させることによって二次創作たる面目躍如があるので、原作側の公認でなければ難しく、ほぼ不可能といっていい。

 以前、ある方がおっしゃっており、それがぼくを指すのかはついにわからないのだけども、パワプロのキャラクターの「ダークサイドにメスを入れ」て書く、つまりぼくのようにキャラクターの人間的部分を抉り出して心境小説的にSSを展開する書き方は、知っているかいないかはともなくとして原作のコナミからすれば鼻持ちならない行為なのである。

 パワプロキャラクターを主人公に据え、その純粋な面を保って、なおかつ優れた作品を提示してみせたのは、ヘボンさんの『燃えよ左腕』のほか数えるほどしかない。いや、なかった、と言ったほうがいい。すでに『燃えよ左腕』は更新が途絶えて公開されていないから。その点で、すでに公開されていない作品を取り上げることには躊躇があったのだけれども、このままネットの波に攫われて埋もれてしまうにはあまりに惜しいので「パワプロ小説礼讃」に挙げさせてもらうことにした。
 一度公表された作品はいつまでも評価の対象であり、著作者の意思は無関係などと、もっともらしい言い訳をするつもりはない。ただ単にぼくが『燃えよ左腕』を好きだったからである。なにとぞご了承願いたい。

 『燃えよ左腕』の主人公は、タイトルのとおり左腕投手でパワプロのキャラクターの猪狩守。意外なのだが、パワプロ小説にあって原作のキャラクターを主人公にした「長編」はほとんどないのである。とりあえず、ぼくが読みはじめたころに原作キャラが主人公の小説といえばヘボンさんの『燃えよ左腕』くらい見つからなかった。探索不足だったのだろうか、そのため本作はとても印象深いものとして今も覚えている。

 球界のエースとして君臨していた猪狩守も30間近になり、衰えを感じはじめたころに、若手右腕で2年目の辻孝介(違ってたらごめんなさい)の教育係となる。同年代であれば猪狩守もライバル心を燃やすところだが、年齢に加え壊れかけた肩もあり、素質は十分にあるが技術の伴わない辻を後継者として育てることを決意する、というのがざっくりとしたストーリーである。

 『燃えよ左腕』が面白いのは、オリジナルキャラクターの辻を天性の素質を持った豪腕投手として描きながら、絶対に猪狩守を差し置いて主人公とならず、その素質を開花させることによって教育係である猪狩守の指導がただしいことを証明する役割を担っている点がある。ぼくはオリジナルキャラクターが前面に出て、原作のキャラが引き立て役に堕するような作品は毛嫌いしているのだけれども、『燃えよ左腕』についてはまったく逆なので、そのためにイケイケの若手である辻君をとても好きだった。

 もともとベテラン投手と若手の師弟関係というのはぼくの好みで、たとえば現実でも阪神の村山実と江夏豊の複雑な関係は両者の著作を読んでとても面白かった。左右の違いはあるにしても、『燃えよ左腕』の猪狩守と辻孝介も彼らと通じるものがある。村山実が血行障害のためにベンチで右手をお湯に浸からせ、膝に痛み止めの注射を打ちながらマウンドに上がったように、また『燃えよ左腕』の猪狩守も満身創痍の体で優勝をかけたパワフルズとの天王山のマウンドに上がった。
 ライバルの小波や福家花男のいる強打のパワフルズ打線を相手に、猪狩守は衰えた能力を補うために、あらゆる知恵を絞って勝ちに行こうとする。猪狩守はそのとき初めて、才能だけで投げてきた自分を顧み、心技体すべてを投じて野球に勝とうとすることの面白さを知るのである。長くない野球人生の最後になって、まるで夕日が沈んだあとの数10分だけ空が美しい色彩を帯びるマジックアワーのように、猪狩守は真理を悟る。野村克也が言った「技術の向上が止まったとき、はじめてプロ野球選手としての戦いが始まる」という語録に当てはまる名場面で、気高く静謐な猪狩守の姿に感動させられたのだった。

 その試合が終わり猪狩守が倒れたところで、『燃えよ左腕』は続くことなく終わってしまったと記憶している。ここからはぼくの邪推なのだが、猪狩守の倒れたあと、その弟子であり後継者の辻の成長と活躍が見られるのがストーリーとして妥当なのだけれども、作者は原作を尊重し猪狩守を愛するあまりに辻が前面に出るストーリーに興味を注ぐことができなかったのかもしれない。とすれば、小説がはじまったときから完成不可能性を孕んでいたということになるので、やはりこの推測は検討違いではあるが。

 『燃えよ左腕』をもう読めないことはほんとうに残念である。
 二次創作かくあるべし! と言うにもっともたる作品だったと思う。しかしまた、過ぎた日を想うのは甲斐のないこと、一度でもこの秀逸な作品を読めたことを好運に思うばかりである。

| パワプロ小説礼讃 | 03:21 | comments(3) | trackbacks(1) |
善悪の彼岸
 パワプロ小説礼讃 

 『OVER GROUND』   ――PONさん (The back of beyond'z)


 いかなる創作のジャンルであれ、目も眩むほど壮大な巨編がある。パワプロ小説も例にもれず、PONさんの『OVER GROUND』が、そうした巨編に位置するということに異を唱える人はいないだろう。第孤堯孱廛好織鵐澄璽鼻廚如▲薀ぅ丱觜發瞭睚兇伴束に焦点を当てた桐生院高校編が終わったところで240話、主人公の降矢毅擁する将星高校編を含めれば255話分にもなる。現在も連載中だが、質・量ともにすでにパワプロ小説の金字塔といっても差し支えないと思う。 
 
 『OVER GROUND』は、「以前はいわゆる品行方正のお嬢様学校」であった将星高校に、主人公の不良少年降矢毅が入学して来たことにはじまる。
 降矢は野球については素人だが、将星高校は数年前に共学になったので、男子野球部員の頭数を揃えるためほぼ強制で入部することになり、同じく入部した中性的美少年で「ちんちくりん」こと冬馬優とともに、数々のライバルに出会いながら野球にのめり込んでゆく。――

 と、書けばスラムダンクよろしく不良少年を主軸に据えた王道スポーツマンガの小説版ということになるが、事実はそう捉えるには相応しくない。当初はただの野球素人かと思われた降矢の異常な身体の秘密、桐生院高校の内紛の原因となった堂島哲治の不穏な動きに、パワプロクンポケットに登場する組織である「プロペラ団」が絡んで、ストーリーは高校野球のみならずミステリーの要素を帯びた奥深いものになっているのが特徴である。
 『OVER GROUND』が多くの読者を得て「The back of beyond'z」に優れた作家が集まっているのはPONさんの人徳もあるにしろ、やはりメイン小説であり、濃密で先の読めない『OVER GROUND』のストーリーの面白さによるところが大きいと思う。

 『OVER GROUND』のもうひとつの特徴として、その内容だけでなく文章形式があげられる。いわゆる「台本小説」。会話文のカギカッコの頭に喋っている人の名前が付くものであり、たとえば第一話で降矢と冬馬が職員室に行こうとして迷う場面では、下記のとおり記述される。
 冬馬「あはははは」
 降矢「…いい加減笑うのをやめたらどうだ」
 冬馬「あはは、悪い悪い、でもさ、迷うだなんて、ぷぷ」
 降矢「ぶん殴ってやろうか」

 台本小説とは、文学形式のひとつであり数世紀前は主流でもあった戯曲とも違い、一応の地の文はある。また、臨場感を持たせるための「カキーン」といった擬音語の特徴だろう。

 この台本小説の形式は、パワプロのサクセスでの進行と親和性がある。というのも実際のサクセスは画面にキャラクターの画像が出て下部に発言が表示される育成シミュレーションゲームの形式をとっており、パワプロのサクセスを文章に変換するときもっとも自然なのは台本小説という形式だからである。また、地の文による描写のない映像等をそのまま文字にした場合、台本のカタチにならざるをえない。台本小説が「絵のないマンガ」と呼ばれる由縁である。

 そのため、パワプロの小説というとこの台本小説の形式が主流を占めている。考えればそれはまったく当然の帰結だとぼくは思うのだけれど、幼い書き手だと文字による表現のうえで配慮しなければならない描写が不足してしまうために台本小説には読むに耐える作品が乏しく、結果として台本小説それ自体が好ましからざるものとして評価を受けているのが現実である。(ちなみにこの台本小説という形式を暗喩的に説明してみせた小説にlnanさんの『真中島の死闘』がある)ただし、これは台本小説の書き手の質を総計しているのみであり、台本小説がそのまま表現形式として全的に失格であるかのような批評(というか非難)は正当でない。

 PONさんにしたところで、この批評は重々承知で、その上でなお『OVER GROUND』連載を続けておられることを明言しているのであり、書こうと思えばいくらでも小説然とした作品は書ける人である。ぼく個人の好みだと、日々急速に進んでいく音楽業界の流行と自らのサウンドの追及の乖離に悩む男が、ビルの向こうにさまざまな物質の実をつけた大木を見る「City Of Sounds」は、ダイナミックなシュルレアリスム作品としてのイメージの確かさ豊かさがある。けっして台本小説しか書けないから書いているのではない。

 と、話は台本小説云々に脱線してしまったが、『OVER GROUND』は読者の読みやすさを配慮しながらエンターテインメントに徹した傑作である。第孤堯孱廛好織鵐澄璽鼻彎星高校編では、県くんとパワプロのキャラクターであるミッキーの交流や相川と生徒会長氷上の対立に代表されるように、今までパレートの法則(2:8の法則)さながら、やや降矢の活躍に偏重していた本作において残る8割の焦点化と野球部員としての底上げが描かれると予想され、また野球の試合が多かったところから高校生の学園生活が繰り広げられるという。このあたりにもエンターテイナーPONさんの優れたバランス感覚が垣間見られる。

 さて、250編を超える大作『OVER GROUND』が今後どのように展開し完結に至るのか、ぼくもいろいろと想いを巡らすのだが、そのタイトルが指し示すとおり善悪の彼岸を突き抜けたところにある「透き通った何か」を漠然と感じるのみで、ディティールについては、PONさんはぼくの乏しい想像力を遙かに超えてゆくことに間違いはないだろう。

 彼のこれからの活動を含め、『OVER GROUND』には片時も目が離せないのである。

| パワプロ小説礼讃 | 01:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
書きやすいバックグラウンド
 パワプロ小説礼讃 

 『Sleeping in the Flower』   ――荻原さん (AceMight.be)

 こんなに書きやすいバックグラウンドがあるのに、何でみんなオリジナルに走りたがるのだろう? と、パワプロサイト全体の小説の書かれ方について、かつて荻原さんが仰っていたのを見たことがある。

 上記のように、ぼくがオリジナルの要素を極力排したパワプロ小説もしくはパワプロSSを書こうと思い至ったころ、すでに先達として存在していたのが荻原さんだった。4年以前のことだと考えるとぼくの荻原ファン歴もなかなか長いものだ。当人にしてみたらもはや気味の悪いことだろう。

 当時の作品では、公式戦の大事な局面でなぜか勃起している自分に戸惑う『少年と葛藤』(改題前:『不全になりたい』)、気だるい夏の日に芹沢茜とのたわむれを独特の文体で語る『走る? ストー』などがあり、読んでまもなく、パワプロでもこういう作品が書けるのだなァと刺激を受けた反面、巨大なこの先輩の筆力に気圧されたのを覚える。もっと言えば「目の上のたんこぶ」として荻原さんはぼくに認識され、今に至っているとも言える。すでに掲載されていないそれら作品の、色彩といおうか香りといおうか、詳細は定かでないのに全体のふんいきを今でも懐かしく思い返されるのは、やはり荻原さんの作品の面白さのためだと思う。 

 『実況パワフルプロ野球』の二次創作でありながら荻原さんの作品はある点ではパワプロと隔絶されている。隔絶されながらふしぎとさもありなんと納得させられるシュールな魅力がある。野球ゲームという健康で対象年齢の低い素材でありながら、先の『少年と葛藤』ではパワプロ9のキャラクターである四条賢二の勃起問題に終始し、『selfish noise』では友沢亮と猪狩守のボーイズラブが繰り広げられる。また、おなじみストーくん(須藤千裕)が登場する作品にはパワプロにあるまじき脱力感が心地よく全体に流れる。読む者はそれがすでに二次創作であることを忘れてしまう。

 荻原さんの作品はよく「独特」と形容されるが、そこには面白い意味合いが含まれていると思う。登場人物もステージもパワプロを活用しつつ、文章表現によって独自の作風を展開している(こういう芸当のできる人はそうそういない)、そういう意味に限っては荻原さんこそよっぽどオリジナルなのであるけれども、パワプロ小説またはSSの定義を考えたとき、まず素材に焦点を当てることが多いためにパワプロの創作として捉えられるので、彼の作品をかいつまんで説明する際、結果として「独特」と言いざるをえないのではないか。

 と、パワプロ小説もしくはパワプロSSの定義といった、学問的ですなわちクソ面白くない話は、特定の書き手を取り上げ礼讃する趣旨から考えるとやや階層が違うので、ひとまず置く。

 『Sleeping in the Flower』は荻原さんの新作短編。ぼくがはじめて荻原さんを知ったころとは変化している。当時、パワプロの読み物では地の文が多い作品はあまり見当たらない中で、一般の小説と同程度の地の文と会話文の比重を保っていた荻原さんの作品だった。ぼくが読みはじめたのはそうした形式的な部分もあったことを白状するのはいいとして、新作やここ最近の短編では、ほぼ会話文によって構成されている。『Sleeping in the Flower』の地の文を追ってみると、冒頭第1段落「ねえ、と橘が口を開く。」「橘の目がなぜか輝いた。」そして「ガチャ」、たった3行しかない。最後にいたっては擬音語である。

 しかし地の文の多さがその質の高さを証明することと同じでないことは論を待たない。とくに短編では極力むだを排するのが正当である。そのための「短編」なのだから。すでに『世界で一番ボクが好き』のころから片鱗はあったのだけれど、ますますもって名人芸的な間の取り方、簡略化の技法が推し進められている。実際、誰が読んでも風景描写がいらない、必要としない作品だとわかるだろう。

 段落ごとに状況を説明すると、クリスマスに、まず友沢亮と橘みずきの一見そっけない会話が繰り広げられる、つぎにケーキ売りのバイトをしながらすきを見て喋るサンタの友沢とトナカイ須藤くん。バイトが終わって、友沢がケーキを持ちながら須藤くんとともに家路に着く。友沢の家では冒頭の会話のとおり、姉弟と橘みずきが帰りを待っている。サンタとトナカイの衣装のままである友沢と須藤くんは、姉弟を喜ばせようと「……どっちから入る」「別にどっちだって」「じゃあオレから」「やっぱりサンタから入るべきだろ」「いやいや、ソリを引っ張るのはトナカイだから」「だが主役はオレだ」「主役であれば満を持して最後に登場すべきだ」玄関前でうだうだやっている、と玄関があいて橘みずきが出てくる。おそらくこの場面、パワプロの絵ならみずきは細い眼になっているだろう。それから家に入るのだけど、須藤くんは素直にならない友沢と橘をふたりで散歩に行ってくるように促す。最後は須藤くん、友沢姉弟3人になって遊ぶ場面で終わる。――会話文だけで、一連の流れが理解できるように書かれてあるのがすごい。

 また、この作品に限らず荻原さんの作品はラストの数行あるいは一文がとても良い。
 「ちょっとした言葉。ちょっと大きめの表情。いいものを見た。彼はそう思った。」(『きらいな花は』)
 「わたしたちは、また。」(『Four of Two』)
 良い文章とは情報量が多く、そして的確であることだと思うけれど、本作のラストに至っては一番の関心ごとに何も言及しない技法が用いられている、と、ぼくは考えた(というのもちょっと自信がないからである)。

 須藤くんが幼い姉弟と戯れている絵と二重写しに、夜更けに散歩する友沢亮と橘みずきが重なる。そこまでいくと、何も語らないことによって想像を誘発され、まんまと荻原さんの仕掛けた罠にはまるのである。読者は「最小のことばが最大の秘密を語る」という詩歌の根底にある命題をここに見ることになる。

 また、この表現方法は、パワプロのような人が2、3頭身で簡略化されたものにふさわしい。まさに小説然とした文体でのパワプロ小説・SSはどうしてもマンガを実写化したような滑稽さを伴い、小説のたしなみのある人は、何かパワプロを創作対象として取り扱う気になれない、もしくは避けるのはそうした部分が無きにしもあらずだと思う。荻原さんの近時の作品は、みごとにパワプロ二次創作の難点をクリアしている。


 あるときはあまりにヒューマンな内容をパワプロへ意図的に付与してシュールな作品を読ませてくれる、あるときはひとつの理想的なフォームを提示してくれている荻原さんは、やはりぼくにとって目の上のたんこぶであり、同時に敬愛する人物としてこれからもあり続けてほしいと願っている。

| パワプロ小説礼讃 | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
パワプロ小説礼讃 序文
 パワプロ小説礼讃     ――序

 誰がはじめにパワプロ小説たるものを書いたのか、そもそも何を指してそう呼ぶのか、実際にそれら作品に需要はあるのか。歴史、定義、現状といった問題は、評論するうえで大前提としてあがるものだが、取り急ぎぼくはそれらを部屋の片隅に寄せておくことにする。
 アイロンマットや本棚に入りきらない文庫本を詰め込んだ段ボールと同じように、必要ではあるが日々を過ごすのに支障を来たさないものを目につかぬ場所にまとめていくのは無精者であるぼくの得意とするところである。

 この世の二次創作と呼ばれるもので、ぼくがなぜ『実況パワフルプロ野球』のそれを偏愛し、あまつさえ書きもしているのか、よくわからないところがある。ひとえに二次創作はファンフィクションの別名があるとおり、ぼくがパワプロのファンであるから、というのがもっとも聞こえの良い理由ではある。角が立たぬは何事においても好ましいものだ。

 オンライン上の創作物は、まるで浜辺の砂文字のように消えることも早く、ふと思いだしたときにはサイト自体が消滅、二度と読めなくなるものも多い。パワプロ小説にしても同じである。現存するものから波に攫われ今では消えてしまったものまで、妄執に憑かれ、いろんなものを読んだのだ。

 そうして、今までのパワプロ小説読書遍歴を兼ねて、ひとりの作者様につき一作を原則として、その魅力を伝えたいというのが本コンテンツの目的になる。まだ想定した全員の分の原稿はできておらず、完成し校了しだい追って更新する運用になる。
 拙文ではそれら作者様の凄さや面白さを表現しきれず、ときには的外れで過剰な賞讃のため、方々には面映ゆい気持ちにさせてしまうかも知れないが、なにとぞお許し願いたところである。

| パワプロ小説礼讃 | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) |

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